【書評】Osprey Combat Aircraft 71 “Il-2 Shuturmovik Guards Units of World War 2”, Oleg Rastrenin

Osprey Combat Aircraft 71 “Il-2 Shuturmovik Guards Units of World War 2”, Oleg Rastrenin

 

目次

Introduction

 Chapter One:

 Strike Force Development

 Chapter two:

Birth of the Legend

Chapter three:

 Stalingrad

Chapter four:

 The Tide Turns

Chapter five:

 The Final Stages

Appendices

 Color Plates Commentary

 Index

 

 

・著者について

Osprey Publishingの紹介文によれば、著者Oleg Rastreninはジュコーフスキー空軍大学卒の少佐であり、また科学博士であり……という経歴の持ち主。そして何より、Il-2をはじめとしたソ連の襲撃機に関する専門家である。彼の著作はIl-2や襲撃機に関するものばかりで、内容は機体そのものに留まらず、部隊の編制や戦術も範疇に収めている。

 

・内容について

 序章でIl-2親衛隊と航空機Il-2そのものについて簡単な解説を行い、1章で開戦時から戦争終盤までのIl-2部隊のおかれた環境や組織、戦術の変遷の要点を概説する。続く2章以下では後に親衛隊に昇格するIl-2装備部隊に注目し、それぞれ1941年、1942年、1943年、1944年以降について、出撃とその戦果を中心に、戦況や戦術、主要な活躍について記述している。内容はよく整理されており読みやすく、Il-2と襲撃機部隊の活動について多くを知ることができる。

 

 体裁こそIl-2を使用した親衛隊の部隊史となっているが、実際のところはIl-2の活躍シーンを収めたハイライト集と言った方が適切かもしれない。大戦の全期間を通じて対地攻撃に使用されたIl-2だが、その任務は戦況に応じて大きく変化し、またそれぞれの戦術も多様だったことが多くの事例とともに示されている。中でも類書であまり扱われないのは3章、1942年のスターリングラード戦でのエピソードだろう。ここでは航空機の数が不足していたことを背景に、対地攻撃だけでなく敵爆撃機や輸送機の迎撃に至るまで八面六臂の活躍を見ることができる。

 

 もちろんそれ以外の章も魅力的で、4章では幾分余裕の増した1943年について、目標を捜索しつつ攻撃する”Free-hunting”や橋梁攻撃専門の部隊、そして大口径機関砲やPTABなどの対戦車兵器が紹介されているし、そして最後の5章では、1944年以降、近接航空支援システムの完成により攻勢正面で敵地上部隊を蹂躙するIl-2の姿が示されている。2章で扱われている1941年の苦戦から読み通すことで、大戦中のそれぞれの時期におけるIl-2部隊の姿を知ることができるはずだ。

 

 もっとも、戦術や編制について重点的に知りたいのであれば、同著者の執筆した『主力打撃戦力』が本書より詳しい。邦訳・公開されている方がいるので、そちらを読まれるのがいいだろう。(洞窟修道院さんhttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad/6218/の「ソ連軍資料室」http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/RKKA.htmlにて公開されている)そうでない方も、本書の第1章の内容は上記『主力打撃戦力』と重複するところがあるため、日本語で読めるこちらを先に読まれると本書の理解が深まるかもしれない。

 

 

 もう一点、本書に補足するとすれば、第4章で扱われている対戦車兵器"PTAB"については、本書では触れられていないその欠点などについて、日本語で読めるものではドミトリー・ハザーノフ『クルスク航空戦()』が詳しいので、興味のある方はそちらを合わせて読まれることをお勧めする。

【書評】Mikhail Maslov, “Vakhmistrov’s circus: Zveno Combained Aircraft - The Projects, Development, Testing and Combat”

Mikhail Maslov, “Vakhmistrov’s circus: Zveno Combained Aircraft - The Projects, Development, Testing and Combat”, Helion & Company, 2016

 

2018/06/04 追記 

 

・本書について

 本書は1930年代にソ連で研究されていたZveno計画のモノグラフである。この計画の概略を説明すると、大型爆撃機に小型戦闘機を搭載して離陸し、戦場上空で切り離すことで小型戦闘機の短い航続距離を伸ばしたり、あるいは子機に単体では離陸できないほどの爆弾を搭載して、より精度の高い爆撃を行うなどを目的としている。(なお、先に挙げた目的は主要なもので、本書の中で語られるZveno計画の目的や副次的効果は非常に多岐にわたる。)

 題名となっている”Vakhmistrov’s Circus”というのはこの計画につけられたあだ名で、この計画の最大の特徴である外見の珍妙さがよく表されている。

 

 著者のMikhail Maslovは技術者であり、モスクワ航空大学を卒業後、ツポレフ設計局とTsAGIで勤務していたという。本国では戦前のソ連航空機を中心に多数の著作があり、また英語でも ”Polikarpov I-15, I-16 and I-153 Aces” (Osprey Publishing, 2010)や、”Tupolev SB - Soviet High Speed Bomber” (Icarus Aviation Press, 2004)などの著作がある。

 

・内容について

 本書が主に扱うのは一連のZveno計画の発端からその最期に至るまでであり、個別の計画、つまり最初に試験されたZveno-1から最後のZveno-SPBまでの各計画に対して、独立した章が設けられている。内容はそれぞれ計画の推移と仕様、試験の様子と結果、その後の顛末などに焦点があてられており、Vakhmistrov本人を含めた当事者たちの回想も引用されている。上記に加えて、唯一”量産”された (たった5組だけではあるが) Zveno-SPBには生産と実戦について、また計画のみに終わったZveno専用機、そしてZveno計画のチーフエンジニアだったVakhmistrovの経歴と、彼の考案した別の秘密兵器「Parachute-Cable Canon」についても文章が割かれている。文章の筆致は記録をもとにしたと思われる手堅いもので、著者の私見が挟まれることはない。*1

 また、写真と図面が計画ごとに多数収録されており、本書の全150ページのうちそれらの割合が半分以上を占めている。よく知られている合体時の写真はもちろん、親機と子機をつなぐ固定具をはじめとした様々な追加装備の写真や図面によって、文章だけではわからない細部を十分に知ることができる。

  

 とても真面目な本なのだが、そこから読み取れる内容は非常に面白い。なにせZveno計画はその着想から計画中止まで10年もの期間に渡って続けられていたこともあり、非常に多くの側面があるのだ。当時の航空機が運用開始から3年ほどで時代遅れになることを思えばその特異さがわかるだろう。それはつまり計画の途中で使用機体が時代遅れになってしまっていたことも示しているのだが。

 

 この本で語られていないことを挙げるとすれば、1つ気になるのはこの計画に対する当時の評価についてだろうか。Zveno-SPBの実戦について1つ紹介されている程度であり、当時の評価についてあまり触れられていない。

 また、本書はVakhmistrovを中心にしているためか、Zvenoと同様にTB-3の翼下に航空機を搭載するニキーチンのPSNプロジェクトについては触れられていない。

 

 

(2018/06/04追記)

 Zveno計画については、まず何より興味を引くのはその外見だろう。 大型爆撃機の上に小型戦闘機を搭載している様子はそれだけで奇妙な面白さをもつ。この形態はそもそも、発案者のVakhmistrovが航空機の主翼に搭載する曳航標的の試験をしているときに着想を得たものだという。小型の曳航標的なら搭載も手間ではないだろうが、人間が乗るサイズの飛行機で同じことをするのだからその手間は大変なもので、例えば主翼の上に子機を持ち上げるために、主翼の後縁まで至るスロープを作り、そこを作業員が押すなり縄で引くなりして1トンを有に超える重量の航空機を持ち上げる必要がある。ピラミッドの建設風景を彷彿とさせる光景だ。しかもこの際、エンジンはあらかじめ地上で始動しておかなくてはならない。Zveno-2では飛行前点検に6時間もかかったという。

 また、主翼の上に子機を乗せるという本来の用途から離れたことをするのだから、もちろんあらためて強度計算が必要になる。これはVakhmisrovの所属するVVS NIIだけでなく、TsAGIの専門家の助力を必要とし、更にTsAGIに実験用の機体を貸し出したというから非常に大掛かりだ。Zvenoの親機はこの結果をもとに主翼と主脚の構造が補強されているおり、見た目ほど単純なものではないことが察せられる。

 完成したZvenoは実験を繰り返し、航続距離の延長や離陸重量の増加なども含めて成功を収める。また子機搭載の手間を減らすため、そのころ次第に現れつつあった単葉機を翼下に搭載する方法も試験されていたりするのだが、そうこうしているうちに親機のTB-1は時代遅れになってしまう。次に白羽の矢が立てられたのは後継機のTB-3で、こちらでも実験が重ねられるのだが、そのうち子機として使われていた戦闘機I-5が時代遅れになり、また親機のTB-3も新型でより小型の(つまり親機になり得ない)高速爆撃機SBの登場により時代遅れになってしまう。更にはこの計画を支援していたトハチェフスキーが粛清され、その空気の中でZveno計画は勢いを失う。その後、最終型のZveno-SPBは「量産」が決定されるものの、それも容易ではなく生産数はごく僅かにとどまっている。VakhmistrovはTB-3の後継爆撃機Pe-8によるZvenoを訴えていたが、最後は大戦が近づく中で計画中止となった。

 とはいえ、1930年代の後半になると計画は相当な洗練を見せていた。機体の搭載に必要な時間は10~35分までに短縮されたし、また初期には無線を搭載しておらず子機との通信は手振りで行うしかなかったため、合計4機の子機を抱えて離陸するAviamaatka PVOでは離陸の際に子機が出力調整を誤って文字通り右往左往しながら離陸することもあったが、最後期のZveno-SPBでは親機と子機はインターカムにより音声通信が可能になり、また親機からの分離発進許可や出力増減の指示を示す警告灯も子機の近くに取り付けられた。これは更に、敵機の方向(左右、上下など)を示すこともできたという。ここまでくれば立派な空中空母だ。

 本書によりZveno計画は単なる色物ではなく、十分に研究された大掛かりなプロジェクトであったことがわかるし、また当時の情勢の変化を反映した計画の姿から、逆に当時の情勢を感じることもできるだろう。航空機の短命な時代にあって、同じプロジェクトが10年近く続けられたことなど殆ど無いはずだ。加えて、Vakhmistrovの奇抜ながら効果的にも思えてしまう発想の数々はまるでSFを読んでいるようだし、本書全体を通じて見れば、彼の栄枯盛衰の物語として読むこともできる。もちろん、単純にこの計画の写真を眺めるだけでも楽しいものだ。

 興味がある方はぜひ手にとってほしい。

 

*1:ただし、出典は全く記載されていないが

【書評】Osprey Combat Aircraft 96 “Pe-2 Guards Units of World War 2”

Osprey Combat Aircraft 96 “Pe-2 Guards Units of World War 2”, Dmitriy Khazanov and Aleksander Medved

2017/10/15 一部修正

  • この本について

Dmitriy KhazanovとAleksander MedvedコンビによるPe-2親衛部隊の部隊史。Aleksander Medvedは退役した空軍大佐で、Ozon.ruで確認できるものでは単独でP-38、モスキートのモノグラフも出版しているが、著作の多くはDmitriy Khazanovとの共著によるものになっている。

  • 内容について

 第1章でPe-2の開発と改良を簡単に解説した後、2章以下ではPe-2を装備して親衛隊の称号を得た各部隊の履歴を、部隊ごとに編成から終戦まで記述している。記述内容は編成された場所、移動先、装備機と機数、部隊長の名前、主な出撃や記録すべき出来事、親衛隊への変更、消耗と再編などの情報に加えて、採用した戦術などにも触れられている。

 各部隊の変遷を読み取ることができる一方、部隊ごとの記述であるため戦況や戦術などの記述が断片的で、これらに興味がある場合は読み取るのに少々手間がかかるという一面もある。読み物よりはどちらかというと資料に近い印象だ。とはいえ網羅的な資料というわけではなく,特筆すべき点が重点的に記述されているという性質のものであるため,痒いところに手が届かない印象を受けた。

 そうは言っても、Pe-2の運用について知ることができるという点だけで十分にありがたいものだ。部隊史であるため、Pe-2を装備する以前や装備変更後についても記述があり、この点ではモノグラフよりも大きな視点を与えてくれる。興味のない方が読む場合は漫然とした記述に苦痛を感じるかもしれないが,Pe-2に興味がある方や、ソ連爆撃機部隊に関心がある方には勧められるだろう。

 ソ連機の翼型について(大戦前後)

2018/08/23 B-BS翼に追記
2017/10/15 全体的に修正

 ソ連機の翼型について雑に調べた結果をいくつかメモする。翼型は英語で”airfoil”, ロシア語で”профиль”, “профиль крыло”というようだ。また層流翼は例えば”крыло ламинатоного профиля”という表現が使われていた。


  • ソ連機に用いられた翼型

 航空機の翼型を調べる場合には、UIUC Applied Aerodynamics Group
The Incomplete Guide to Airfoil Usageが非常に利用しやすい。なんと現在でおよそ6400機の翼型がリスト化されており、多くのマイナーなソ連機についても(出所は不明ながら)カバーされている。
ただし、この表ではI-16の翼型がよく知られているクラークYHではなくTsAGI R-II-16%となっていたり、SBの翼型がTsAGI-6 modとしているが他サイトではTsAGI-40としているものもあったりするため、利用する際は他の情報と比較して確認を取りたい。
 この表を見る限りでは、戦闘機ではクラークYHやNACA系の翼型が多く用いられているが、爆撃機ではツアギ独自の翼型を使うことが多かったようだ。

  • ツアギの翼型

 それではツアギ独自の翼型とはどんなものか。これについてはA. N. ツポレフ名称カザン国際研究技術大学の配布資料に、ツアギの翼型のデータがある程度まとまった形で記載されている(http://kipla.kai.ru/liter.htmlの一番下)。翼型 “A”, “B”, TsAGI R-II, TsAGI-6 各シリーズ他いくつかの翼型について、迎え角に対する各係数の変化、その翼型が使用された機体が記載されている。(機体についてはほんの少しだけだが)

  • Pe-2の翼型に関して

 先の翼型リストには、Pe-2の翼型は記載されていない。検索すると、どうもB-BSという翼型が使用されていたようだ。
B-BSの詳細は不明だが、胴体側の翼型を"B", 翼端側を"BS"としたものと解説されているものが見つかった。

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2018/08/23 追記
書籍にB-BS翼についての記述があったので以下に要約する。
B-BS翼は「胴体側の翼型を"B", 翼端側を"BS"」としたもので、Pe-2の元となった高高度戦闘機”100” で採用された。これは高高度飛行を考慮したもので、高高度からのダイブの際に翼に発生するねじりモーメントを抑制し安定性を保つことができるが、一方で低高度にておいて得られる揚力が小さくなるため、機動性や離着陸性能に悪影響を及ぼすことになった。元々の高高度戦闘機であればこれらの欠点は許容されたが、機体の用途が変更されたことで問題となった。*1
―――

 B-BS翼に関しては、テストパイロットMark GallayのPe-2の翼型にまつわる回想がhttp://testpilot.ru/review/gallai/ithink/staruha.htmに掲載されている。それによるとPe-2に使用された翼型B-BSは、ツアギがUT-1Eを用いて実機試験をしたところ、着陸速度の増大など好ましくない結果が得られたがその報告はペトリヤコフに届かず、その問題点はPe-2にそのまま受け継がれてしまった、とある。またペトリヤコフの後任となったミシーシェフが翼型を少し変更するとそれらの問題は収まったという(Pe-2Iのことだろうか。そのうち調べたい)。
また、先のリストによるとSu-2も翼型"B"を使用しているため、併せてそちらも調べると何か知見が得られるかもしれない。

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2018/08/23 追記
先の書籍にてPe-2の翼型改良についての記述があったため以下に要約する。
主翼改修型の試験は1944年7月に行われている。試験機(14-226)は外翼の翼弦25%までをNACA-230(原文ママ。おそらくNACA5桁系列で、末尾2桁の翼厚比を省略しているのだろう)に変更、また翌幅と翼面積を増加させている。離着陸特性や失速速度が改善されたものの採用には至らなかったという。*2

また、Pe-2の各部を大幅に改修したPe-2Iでは、Centre section(原文ママ。内翼の前縁だろうか)の翼型をNACA23012として、後縁のB-BS翼と結合させているという。*3
このあたりの記述がはっきりとしないので、何かしらの裏付けを取りたい。

B-BS翼について検索していると、”B", "BS"の翼型が(出典は不明ながら)フォーラムにアップされていた。(http://scalemodels.ru/modules/forum/viewtopic_t_4171_start_200.html)
これを見る限り、"BS"の翼型は"B"と比べて前部が鋭く、わずかながら後部上面の反りが大きくなっているようだ。最大キャンバ位置は30~40%あたりだろうか。次図にNACA23012との比較を示す。

f:id:rapier2114:20180823231824p:plain
"翼型”B”, "BS", NACA23012の比較。それぞれ翼厚比12%だが、差が明確になるように縦方向に引き伸ばしている。

以上を見る限り、Pe-2の翼型改良として主翼前縁付近のみNACA23012に変更する方法は、前縁付近の厚みを増大させることで、抗力係数は増えるものの前縁からの気流の剥離(=失速)を遅らせることができるといえそうだ。(この辺りはある方のご指摘による。ありがとうございました。)
また、手を加える部分が翼の前縁付近だけで済むのであれば改修の規模を抑えることができるため、既に量産が軌道に乗っていたPe-2の改良案としては量産への影響を減らすという観点からすれば合理的ではないだろうか。結局のところ採用されなかったが。
―――

  • 層流翼

 http://www.rulit.me/books/aviacionnyj-sbornik-1991-01-02-read-308629-7.htmlではソ連の層流翼実験機についての記述がある。これによれば、ソ連では1939年にI.V.Ostoslavski と K.K.Fedyaevskiによって層流翼型が開発されており、1942年には実験用グライダー”LS”が製作され、飛行試験を行っている。1943年にはG.P.svischevが新たな層流翼型を開発し、1944年にはYak-7Bをもとに主翼を層流翼型に変更した実験機Yak-7Lで飛行試験を行っている。Yak-7Lは高度3600mで最高速度620km/hに達したが、翼の構造をYak-7Bと同じにしていたため層流翼の効果が十分に発揮されなかったとして、新たに開発した層流翼に適した主翼を装備した実験機La-7Lを製作している(あくまで主観だが、この主翼の平面形はP-51のものに似ている)。La-7Lでは風洞実験のみ行われ、主翼は試作戦闘機“120”に受け継がれたとある。おそらくその後 “126”に受け継がれ, そしてLa-9で量産されることになったのだろう。簡単に検索するとLa-9, La-11やYak-15などの戦後の直線翼戦闘機では層流翼が用いられていることがわかる。

 層流翼については他にもhttp://airfield.narod.ru/yak/ut-1/ut-1.html#16に1942年12月に層流翼を装備したUT-1を用いて実機試験が行われたことが記載されており、文林堂「世界の傑作機 No.156 第二次大戦ミグ戦闘機」では1943年ごろに製作されたI-220に層流翼が用いられたことが記載されている。

*1:Peter C Smith, "Petryakov Pe-2 Peshka", Crowood Press(2003) p.11

*2:Peter C Smith, "Petryakov Pe-2 Peshka", Crowood Press(2003) p.133

*3:Peter C Smith, "Petryakov Pe-2 Peshka", Crowood Press(2003) p.146

ソ連機と沈頭鋲(戦前から戦中まで)

2016.4.14:全面的に更新

九七戦や零戦とともに語られて、何かと話題になる枕頭鋲について、ソ連機ではいつごろから使われていたのか気になったので雑に調べてみた。詳しく調べるための足掛かりとなれば幸いだ。できれば追加調査、更新したい。


  • 枕頭鋲について

 沈頭鋲は平頭鋲、平頭リベットなどとも呼ばれるリベットの一種で、通常のリベットでは接合箇所の表面に半球形の頭が残るところを、平滑な表面を得られる。鋲を多用する金属製モノコック構造の航空機では機体の空気抵抗を減少させる効果がある一方、(方法により異なるものの)リベット打ちに手間がかかるという一面がある。
 ただし第二次世界大戦前や戦中のソビエトの航空機、特に戦闘機は資源入手性の問題から全金属製を避けることがあり、例えば胴体を見ればI-15とYakは鋼管羽布張り、I-16とLaは木製モノコック構造を用いている。これらの航空機では金属製モノコック構造の航空機と比べて使用する鋲の数が非常に少なく、沈頭鋲により得られる効果も限定的になることが想像できる。一方で爆撃機のSBやPe-2, DB-3などは金属製モノコック構造であるため、こちらに注目するべきかもしれない。
 英語ではcountersunk rivetやflush rivet, ロシア語では”потайной заклепки”, または”заклепки с потайной головкой”, “флеш заклепки”, ほか”потайной клепки”などの表現が使われていた。


  • 航空機への使用

ざっと調べた限りでは、ソ連では1933年頃に初飛行したいくつかの機体で沈頭鋲が使用されていたようだ。ツポレフ設計局のI-14 (ANT-31) , MI-3 (ANT-21) , SB (ANT-40) がそれにあたる。

    • Tupolev I-14 (ANT-31)

 I-14は1933年に初飛行した当時の先進技術を集めた全金属製の戦闘機で、単葉、金属製モノコックの胴体(主翼と尾翼は波板構造だが,後のI-14bisと量産型では平滑な主翼になっている)、引き込み脚を備えていた。競合するI-16が構造の簡素さと生産価格、そして速度においてI-14に勝っていたため少数の生産に終わっている。
 沈頭鋲を使用しており、I-14の設計と生産を通じて沈頭鋲の使用に関して経験を貴重な経験を蓄積できたと評価されている。(http://www.airwar.ru/enc/fww1/i14.html)

    • Tuporev MI-3 (ANT-21) 

 MI-3は双発多座の護衛戦闘機で、同じく双発多座の多用途機であるTupolev R-6の護衛戦闘機型、KR-6の後継機として開発されたが、採用されず製作されたのは原型機2機のみだった。初飛行は1933年。胴体がジュラルミンのセミモノコック構造で、部分的に沈頭鋲が使用されていたという。(っていう話が英WikipediaのANT-21項に書いてあった。時間があればもう少しきちんと調べたい。)

    • Tupolev SB(ANT-40)

 SBは全金属製の高速爆撃機で、原型のANT-40-2は1934年に初飛行している。こちらも当時の先進技術を集めたもので、胴体は金属製モノコック製で、引き込み脚を備えている。原型では沈頭鋲を用いていたが、初期の生産型では生産技術上の問題のため主翼と尾翼の前縁だけに用いられ、それ以外は通常の丸頭鋲になっているという記述がされている。(http://wunderwafe.ru/Magazine/AirWar/64/03.htm
http://mig3.sovietwarplanes.com/sb/sb.htm
http://pro-samolet.ru/samolety-sssr-ww2/bomberdir/78-bombardir-ant-40?start=2)
 モニノ中央空軍博物館には1機のSB 2M-100が保存されており、ネット上にwalkaround写真が上げられている。(http://www.primeportal.net/hangar/yuri_pasholok/tupolev_sb-2m100_katyushka/)
これを見る限りでは、前縁への沈頭鋲の使用については確認できなかった。ただ、尾翼のタブ部分は沈頭鋲のようにも見える。気になるのは機首下面で、よく見ると部分的に沈頭鋲が使用されていたり、沈頭鋲と丸頭鋲が交互に使用されているように見える。ただしこの機体は、Wikipediaによれば強行着陸したものを修復した機体であるらしい。機首下面の状態は修復時に変わったのかもしれない。


    • そのほかの航空機について

 SBと同じく金属製モノコック構造のDB-3はモニノ中央空軍博物館に保存されている。(http://www.asisbiz.com/il2/IL-4/Ilyushin-DB-3.html)ここを見る限りでは、沈頭鋲と丸頭鋲が使い分けられていた。機首周辺(窓の周囲を除く)とエンジンカウリング、そしてなぜか尾翼の動翼に沈頭鋲が使用されている。ただしこの機体も英wikipediaによればレストアしたもののようなので、発見時の機体の状況にもよるだろうが、参考にすべきではないかもしれない。できれば当時の写真を参考にしたいのだが。



Yak-9とLa-7、Il-10、Pe-2は現存機を見る限り全面が平滑で、機体表面に通常のリベットは用いられていないように見える。
 Il-2は現存機がなくはっきりしないが、写真から判断すれば金属製モノコック構造の機体前半には沈頭鋲または平皿ビスが用いられているように見える。ただしいくつか通常のリベットが用いられているように見える部分もあり、よくわからない。加えて、金属外翼を装備した機体では金属外翼の上下面に通常のリベットの凸が見えるような写真もあった。
(http://mig3.sovietwarplanes.com/il-2/il-2.htm)


・気になること
どの機体に沈頭鋲が使われていたか、ということは多少の不明点(特にSBについて)はあるにせよなんとなく雰囲気をつかめたものの、では機体のどの位置にどのような意図をもって使用されたのか、という点はほぼ全くわかっていない。そのうち調べたい。

「モロトフのパンかご」ことRRAB(回転拡散航空爆弾)について

クラスター爆弾禁止条約に関する本では、クラスター爆弾の歴史の項目に「第二次世界大戦の頃に初めて使用された」と書いてあることがあるが、詳細は述べられていない。これがずっと気になっていたので、今回はその一例として、初期のクラスター爆弾であるソ連が使用したRRAB、通称「モロトフのパンかご」についてネット上を簡単に検索して概要をまとめる。

 RRABについては以下のページが詳しい。今回はとりあえずここを中心に情報を拾った。いくつか食い違う情報もあるが細かいことは気にしない。
http://www.rkka.es/Armamento/004_bombas/002_RRAB/000_RRAB.htm
http://topwar.ru/14371-sovetskaya-aviabomba-s-deystviem-kassetnogo-tipa-rrab.html


  • 概要

ロシア語ではРРАБ (Ротативно-рассеивающая авиационная бомба:回転拡散航空爆弾)といい、その言葉通り、航空機から投下され、回転することで子弾を拡散する。大きさと搭載可能な子弾の数が異なるRRAB-1, RRAB-2, RRAB-3の3つの種類があり、それぞれ搭載量[kg]からRRAB-1000, RRAB-500, RRAB-250とも呼ばれる。基本的な構成は同じで、空気抵抗を減らす形状の前部があり、中央に弾倉、後部には投下後に本体を回転させるための折りたたみ式のフィンがついている。子弾は2.5〜 32kgの破片爆弾や焼夷弾を搭載し、子弾の種類によって搭載数と子弾の散布範囲が異なる。


  • 動作

 本体後部のフィンは運搬時に折りたたまれた状態で固定されているが、投下時に解放され、落下するにつれて本体が回転を始める。投下後5〜10秒で遠心力により本体の爆弾倉の側面板を固定していた金属リングのワイヤー部分が破断し、子弾が空中に拡散される。このときの拡散範囲は投下高度と子弾によるが、以下の数字が示されている。

    • 高度3000mからの投下

RRAB-1: 225〜940m2
RRAB-2: 255〜1,300m2
RRAB-3: 220〜850m2

    • 高度5000mからの投下

RRAB-1: 255〜1,200m2
RRAB-2: 315〜1,700m2
RRAB-3: 480〜1,100m2

 参考までに現代のクラスター爆弾の拡散範囲を探すと、米軍のCBU-87で100m×50m, ロシア軍のRBK-250で4800m2という数字が見つかる。同重量の通常の爆弾の危害半径はhttp://www.warbirds.jp/heiki/bakudan.htmに戦中の日本で作成された資料が紹介されていて、参考になる。


  • 子弾について

 最初に挙げたページに各RRABに搭載可能な子弾とその数の表が示されている。爆弾の名称は先頭のアルファベットが爆弾の種類を、アルファベットの後の数字は爆弾の重量[kg]を表している。AOは破片爆弾、ZABは焼夷弾、PTABは成型炸薬弾で、一般的でないAJ, AF, JAB, AOJについてははっきりわからなかったが、おそらくAJは焼夷弾、AFは榴弾だろう。JAB, AOJはわからない。


  • 運用について

 ごく少数がノモンハンで初めて使用され、その後は冬戦争と独ソ戦で用いられた。対人、対非装甲車両に使用され、また焼夷弾を搭載したものは木造家屋に使用されたとある。特に対空陣地の攻撃に効果的であったという証言があり、またPe-8のパイロット、ドミトリー・ヴァウリンへのインタビュー(http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/beseda70.0.htmlで和訳されている。)では飛行場攻撃に用いたという証言がある。
 効果的な攻撃方法であった一方、搭載に手間がかかる、搭載した航空機の機動が制限される、適切に搭載しなければ投下時に予定より低い高度で開いてしまい子弾が拡散しない場合がある、などの面倒な一面もあったようだ。
 RRAB-1とRRAB-2は TB-3, TB-3RN, DB-3, IL-4に、RRAB-3はSB (MN) とIL-4に搭載可能とされている。ただ、R-5やPe-8、SB-2M103(http://mig3.sovietwarplanes.com/sb/sb-evolution/sb-evolution.htm)に搭載されている写真もある。

【書評】『クルスク航空戦』(上下), ドミートリー・ハザーノフ、ヴィターリィ・ゴルバーチ(共著)

ドミートリー・ハザーノフ、ヴィターリィ・ゴルバーチ[共著]
「クルスク航空戦 上 北部戦区 史上最大の戦車戦 ―― オリョール・クルスク上空の防衛」
「クルスク航空戦 下 南部戦区 史上最大の戦車戦 ―― ベールゴロドとクルスクの間で」
大日本絵画、2008

2017/10/15 一部修正

  • この本について

 訳者あとがきによれば、「オリョール・クルスク戦」60周年を記念する公的プロジェクトとして2004年に出版されたもので、当初は非売品の予定であったという。上巻の巻頭に記された前書きが軍航空の関係者でなくオリョール州知事の筆によるものであることが、この本の成り立ちの特異さを物語っているのかもしれない。また、訳者あとがきによれば著者ドミートリー・ハザーノフは本職が原子力関係の研究者であるという。正直に言って、驚きを隠すことができない。

  • 内容について

 上巻の第1章ではクルスクの戦いに至るまでの経緯と両軍の内情について解説し、上巻と下巻にまたがる第2章ではクルスク北部で行われた航空戦の経過を、下巻の第3章ではクルスク南部の航空戦の経過をそれぞれ詳解している。独ソ双方の戦力の内情を数字とエピソードから明らかにするだけでなく、空戦の結果は双方の資料を用いて批判的に分析され、対地攻撃の結果もその例外ではない。

 綿密な分析により双方の過大な戦果報告が暴かれ、そして明らかにされるのは、ドイツ空軍の洗練された戦術と、それに翻弄され被害を重ねるソ連空軍の苦境だ。地上軍との、そして航空機同士の密接な連携により戦場の上空で効果的に働くドイツ空軍に対して、ソ連空軍は十分な協調を行うことができず、主導権を握られてしまっている。著者によればクルスク戦期間中、独ソ航空機の全損比は1 : 2.5に上ったと記述している。

 航空機同士の戦闘だけでなく、対地攻撃の戦果も検証されていることが本書の価値を高めている。中でも成型炸薬爆弾PTAB-2.5-1.5の実情について第三章の中で言及されていることには注目したい。独ソ双方に強力な印象をもたらしたことを示す証言を引用する一方で、実際の戦果を慎重に見積もっており、特性や欠陥の記述もあわせて同兵器の多くを知ることができる。ドイツ側の対戦車航空機Ju87GとHs129Bの活動についても言及されている。

 戦果の検証に加えて、戦力の比較や戦術の解説、作戦行動やエピソード紹介などにより詳細かつ包括的にクルスク上空の戦闘を解説した本書は、この戦いに関心をもつ読者だけでなく、独ソどちらの航空戦力に関心を持つ方にも有用だろう。また有名なドイツ人エースに興味を持たれたことがある方には、彼らの戦術や戦果の例をソ連側の資料から知ることができる点で、知識を補間し理解を深めることができるかもしれない。ドイツ爆撃機の対戦車戦闘の戦果について知りたい方も同様である。先に出版された同著者の『モスクワ上空の戦い』に比べれば紙面や章立てが整理されており読みやすくなっていることも、本書の評価を高める一助となっている。

  • 付録について

 本文中で示される数表にくわえて、出撃数や保有機数、損害などが示された17の数表が付録として巻末に記載されている。特に損害を示した表では6th IAK, 221th BAD, 302th IAD, JG52それぞれがクルスク戦で失った機体の損失時の状況が一つ一つ示されており、特筆されることのない個人の戦いを知る上で興味深いものになっている。