メモ:WWIIソ連空軍戦闘部隊の編制について

(2023-02-06 全体的に修正、追記)

戦記を読む際に編制に関する知識があった方が理解しやすいのだけど、意外とWWII時代のソ連空軍の編制を日本語で解説したものが少ないので、ここで簡単にまとめてみたい…と思ってたけどまとまりそうにないので作成途中で投稿する。記憶に頼って適当書いてるので注意。元気があるときに追記できたらいいんだけど。

 

まずは大まかな区分について。

独ソ戦開戦時の1941年の編成に簡単に触れた文などでは、「総司令部航空部隊」「軍管区航空部隊」「軍航空部隊」「軍団航空部隊」など似たような名前だけが並べられていて、それぞれがどういった存在なのかイメージしづらい。それに対して大まかなイメージを提供するのが本メモの目的になる。


 そのためにはまず、各航空部隊の役割を見ていくのが良いと思う。そこで参考になるのが、1926年にソ連の空軍理論家のLapchinskiiが提唱した航空作戦の分類である「独立」、「個別」、「奉仕」の分類だ。

 

 「独立」は戦場に間接的影響しか与えない、工場への爆撃や航空優勢を得るための作戦を指す。「個別」は戦場に直接的な影響を与えるが、前線の戦闘部隊に所属しない(実際は軍管区・方面軍や軍の指揮下には入るのだが)航空部隊による作戦を指し、航空阻止や近接航空支援はここに含まれる。「奉仕」は陸軍を直接支援する活動を指し、偵察や弾着観測、通信が含まれる。上記の分類は、細かな定義や用語自体の変化はあるものの、1920-30年代には標準的に使用されているという。 もっとも、 「独立」は「戦略」に、「個別」は「戦術」に、「奉仕」は「直協」と言い換えた方が馴染みがあるかもしれない。

 

 そしてこれらは、実際のソ連空軍の組織とも対応しているようだ。

 「独立」任務を担うのは長距離爆撃機部隊であり、基本的に最高司令部の指揮下で活動するもので、「特務(航空)軍(AON : 1936-1940)」「総司令部長距離爆撃機部隊(DBA GK : 1940-1942)」「長距離航空軍(ADD : 1942-1944)」「第18航空軍(18 VA : 1944-1946)」などと何度も組織と名称を変えつつ存在し続けている。1941年の開戦前には空軍の13.5%を占めている。もっとも独立作戦を行うだけではなく、攻勢正面に投入される強力な予備部隊でもあり、実際の運用では地上部隊への航空支援を多く行っている。


 一方、「個別」任務を担うのは、戦前では軍管区(方面軍)航空隊と軍航空隊であり、これらの作戦上の指揮権はそれぞれ軍管区または方面軍と、軍(編制単位としての「軍」)にある。軍管区というのは国土を幾つかの区域に分割して、それぞれに半自律的な地上部隊を配置したもので、戦場になると軍管区を基に方面軍(戦線)が創設される。軍管区(方面軍)航空隊は軍管区(方面軍)の指揮下で活動する。また、軍管区または方面軍は数個の軍を擁しており、軍航空隊はその指揮下で行動する。ソ連空軍の中心となるのがこれらの部隊であり、1941年の開戦前の時点で軍管区航空隊は空軍の40.5%、軍航空隊は43.7%を占めている。


 これら軍管区航空隊、軍航空隊の体制の下で、航空部隊は地上部隊と密接な連携をとることができるようになっていたが、一方で戦力は前線部隊に分散し、戦力の移動や集中運用を妨げていた。複数の戦線を跨ぐほど大規模な独ソ戦が始まるとこの欠点が顕著になったため、1942年の空軍改革以降は、軍管区航空隊と軍航空隊をまとめて、より柔軟な戦力の移動を可能にする、航空軍(VA)に改編されている。

 

 航空軍はいわば航空部隊の「入れ物」であり、独空軍の「航空艦隊」に相当するもので、複数個の飛行師団や飛行連隊、後には飛行軍団を指揮下に含む。1942年5月以降、合計で18の航空軍が創設された。航空軍は各戦線に最低1つ配置され、必要に応じて最高司令部予備や、他の航空軍により増強される。作戦上の指揮権は戦線の司令官にあり、航空軍の司令は戦線司令官を補佐する。規模は時期によって大きく異なり、1942年の発足当初は保有機が200機程度だったものが、1945年には2000-2500機にまで拡大していた。

 

 そして、最後の「奉仕」任務を担うのが軍団航空部隊で、「部隊航空隊(Войсковая авиация) 」とも呼ばれる。具体的な名称としては、1941年の編制では「軍団航空中隊」の名が見つかる。 文字通り、編制単位としての「軍」の下にある「軍団」の指揮下で行動し、場合によっては更にその下の師団、(砲兵)連隊に分派されることもある。総数が小さいこともあるためかあまり注目されることがなく、編制の移り変わりを追うのが難しい。空軍について語る際にはほとんど無視してよいかもしれない。1941年時点で空軍の2.3%に過ぎない。

 1942年以降は直協部隊らしき名称は消えて、独立観測航空中隊(OKAE)、独立観測・偵察航空中隊(OKRAE)、更に後には独立観測・偵察航空連隊(OKRAP)などの部隊が現れている。

 

 


・編制単位について

 飛行軍団(AK)-飛行師団(AD)-飛行連隊(AP)-飛行中隊(AE)が基本的な編成で、大戦中を通じてこれらの名称が変わることはない。ただ、定数と隷下部隊の数が時期により大きく異なる。以下では1941年の開戦時の状況を中心に扱う。


 飛行軍団は最上位の編成単位なのだが、1941年時点では長距離爆撃機部隊と、モスクワ、レニングラードの防空戦闘機部隊にしか存在していない。これらは2-3個飛行師団で構成されていた。

 

 飛行師団は3-5個の飛行連隊から構成され、更に飛行連隊は4個の飛行中隊から構成される。飛行中隊の定数は、戦闘機、襲撃機中隊では15機、爆撃機中隊では12機であり、それぞれの飛行連隊は60機程度を保有していた(重爆撃機連隊では40機)。ただし独ソ線が始まると大きな組織は扱いづらいとされて、飛行軍団は姿を消していったし、飛行師団、飛行連隊を構成する下部組織の数や中隊の定数も減らされていった。1941年8月20日には新鋭機を使用する連隊の定数を20機(9機中隊x2, 予備2機)とする指示が出ている。当然ながら、その後空軍の戦力が回復するとともに飛行軍団は復活し、下位組織の規模や、中隊の定数も拡大していく。

 

 他にも飛行集団(AG)や飛行旅団(ABr)も存在するが、これらは一時的な編成や、予備部隊であったりするのであまり表には出てこない。例えば1941-42年の「予備飛行集団」「打撃飛行集団」など。

 

・訳語について

1) 航空?飛行?

伝統的な翻訳では、「Авиационный」は「飛行」という訳があてられている。例えば「飛行師団」「飛行連隊」など。語感からすれば「航空師団」「航空連隊」と訳したくなるが、「航空軍」(Воздушная Армия)の定訳は「航空軍」だし、1942年7月に一瞬だけ編成された「飛行軍」(Авиационная Армия)との混同に注意が必要になる。

 

「飛行軍」(Авиационная Армия)は強力な予備部隊として適切な組織を模索する上で生まれたもので、計画上は3-5個飛行師団の200-300機で構成されるものだった。ただし実際に編成され戦闘に参加したのはほとんど第1戦闘機飛行軍(1 IA)だけで、運用してみると非常に扱いづらかったうえに航空軍と並列して運用することが困難だったため、7月中に解散している。残る2個飛行軍(2 IA, 1 BA)も同じ運命をたどったという。

 

2) 中隊?大隊?

「飛行中隊」(Авиационная Эскадрилья)は辞書的には「飛行大隊」となっているようなのだけど、このあたりは訳者によって異なっている。伝統的には「大隊」の方が使用されているようではあるけど、定数9機で大隊というのも変な気もする(それで良いのかも知れないが)。 「Эскадрилья」以前の「Oтряд」編成の訳や、編成の歴史的経緯をまとめて誰かうまく訳してくれないかな。

 

 

・主要参考文献
1) Yefim Gordon “The Soviet Air Power in World War 2” Midland (2008)
   1941年の構成について。ただし「航空軍」と「飛行軍」を混同している。

2) Robin Higham, “Russian Aviation and Air Power in the Twenties Century” Franc Kass (1998)
   「航空軍」について。ただし内容は総論的で、記述は薄い。

3) James Sterrett, “Soviet Air Force Theory 1918-1945” Routledge (2007) 
 Lapchinskiiの論について。ただし、実際の編制との関連は明確ではない。

メモ:WWIIソ連の直協機について

数年前に、ソ連の直協機はどのようなものだったのか、ということがネットの片隅で話題になっていたので、調べられた範囲で関連項目をメモする。検索に使う単語を拾うくらいには使えるはず。

  ここでいう「直協機」とは、「数機単位で地上部隊に分散配備され、地上部隊と協力して短距離偵察や着弾観測を行う機体」と思ってもらえればよい。日本陸軍航空隊の九八式直協機がこのようなもので、ソ連における定義もそう変わらない。

例えば、1936年の赤軍野戦操典草稿(PU-36) 1章7項には以下のような記述がある。

«Войсковая авиация ведет разведку и наблюдение, корректирование артиллерийского огня и обеспечивает связь между штабами. Она должна также привлекаться к решению боевых задач.»
(訳:部隊航空隊は偵察と観測、砲兵射撃の弾着観測を行い、司令部間の連絡を提供する。部隊航空隊はまた、戦闘任務の達成にも参加すべきである。)


 「部隊飛行隊(Войсковая авиация)」は直協部隊を指す総称であり、陸軍の軍団、師団、(砲兵)連隊レベルの指揮下で行動するもののようだ。
 実際の部隊名としては、例えば1939-40年の冬戦争では、「部隊偵察飛行中隊(Войсковая авиаэскадрилья)」、「軍団航空分遣隊(КАO :Корпусный авиаотряд) 」が活動している。前者に関する情報はほとんど無いが、後者については、陸軍の軍団の指揮下にあり、更に師団や砲兵連隊に分散配備されたこともあったという。1941年の編制では「軍団航空中隊(корпусный авиаэскадрилья) 」の名が見つかる。しかしそれ以降は直協部隊らしき名称は消えて、独立観測航空中隊(OКАЭ)、独立観測・偵察航空中隊(OКРАЭ)、更に後には独立観測・偵察航空連隊(OKРАП)などの部隊が現れている。1942年の空軍改革は航空兵力の集中運用のために、それまで地上部隊の指揮下に分散していた航空部隊を航空軍に統合したものなので、もしかしたらその際に直協部隊も統合されているのかも知れない。詳細はわからないが。

 

 

 先の文では直協機ではなく直協部隊について述べたが、これには理由がある。大戦期のソ連では直協用に開発された専用の機体を使用していなかったからだ。そのため直協機というのも、直協部隊で使用された機体を指すことになる。

 

 戦前の直協部隊で使用されていた機体は、旧式で使い古された偵察機が中心だった。例えば1939-40年の冬戦争ではR-5とその派生型SSSが使用されているが、R-5の生産は1935年に終了していたし(SSSは1937年に終了)、いくつかの部隊では機種を更新する軽爆撃機隊や襲撃機部隊から中古機を譲り受けて使用していた。

 

 R-5の次に直協機として使用された偵察機R-10も似たような扱いで、部隊への配備は1938年の春から始まったが、直協部隊への配備は後回しにされ、例えば1939年1月1日の時点で直協部隊へは1機しか配備されていなかった。1939年には襲撃機への適性が疑問視され、軍偵察部隊と直協部隊へ移譲する決定がなされた。1939年のポーランド侵攻や1941独ソ戦初頭で直協機として活動しているが、1939年の9月には第135工場における生産が終了し、第292工場においても1940年の春には終了した。

 

 その次の直協機が選定されたのは、独ソ戦が始まり、前線の航空部隊が大打撃を受けたあと、1941年の8月だった。偵察機Su-2と戦闘機Yak-7の練習機型との比較審査が行われ、その結果、Su-2が直協機に向いていると判断された。ペイロードや後席の広さ、離着陸距離の短さ、そして後方機銃の存在が影響したという。直協機型も提案されたが、結局は生産されなかったとも、工場疎開前に第207工場でごく少数が生産されたとも言われている。

 Su-2の生産は1940年に始まり、直協機として選定された半年後、1942年2月に終了した。後継の直協機に更新され始めたのは1943年の半ばからで、少なくとも1944年まで使用されていたという。

 

 直協機としてのSu-2の後継を担ったのは襲撃機Il-2だった。Il-2が膨大な生産数を誇り、Su-2の実質的な後継機であったことを踏まえれば当然ではあるものの、選定の経過はそう単純ではない。初期のIl-2は後席の無い単座型だったからだ。そこで注目されたのが、当時生産されていた唯一の複座型である、練習機型のUIl-2だった。

 Su-2の生産終了から4ヶ月が経った1942年6月に、次期直協機を決めるための比較審査が要求された。対象になったのは練習機Yak-7VとUIl-2で、直協機への改修が容易なUIl-2に軍配が上がり、8月にはUIl-2をベースにした直協機の開発が要求された。

 しかしその要求に対して設計者イリューシンは、より強力なM-82空冷エンジンを搭載した複座型でなければ任務を全うできないと主張した。もっとも、M-82を搭載した複座型は一度は生産が計画されたものの、1942年4月には生産計画は白紙に戻っていた。すでにAM-38液冷エンジン搭載型が量産されており、またM-82エンジンをLaGG-3戦闘機の改良型に使用する方が急務だったからだ。それでもイリューシンはM-82搭載型をあきらめず、試作機の改良と量産への準備を進めたが、実現することは無かった。

 それと並行して従来のAM-38、そして出力のより大きなAM-38Fを搭載した複座型も開発されており、最終的に直協機型のベースになったのは、1943年1月から製造が始まっていた、AM-38Fエンジンを搭載した複座型のIl-2だった。直協機型のIl-2KRは1943年3月に初飛行し、4月には量産された。また、通常型のIl-2を現地改修したものもあり、通常型のIl-2を直協機として使う場合もあったという。

 Il-2KRと通常型の外見上の相違点はまずアンテナの位置で、通常より前よりの、前方風防枠に立てられている。それ以外の相違点は、後部機銃を取り払って巨大なAFA-3S型カメラを取付している場合はわかりやすいのだが、通常は胴体後部にAFA-I型カメラを搭載しているだけなので判別できない。ラジエータの両脇からAFA-3S型カメラを突き出したものや、下方視界を得られるように後席の風防側面を広げたものもあったようだ。それ以外の変更点は、無線機をRSI-4からより長距離交信が可能なRSB-3bisに変更しているほか、細かな変更点があるが、固定武装は通常型から変更されていない。

 

 以上で主要な機体をまとめたが、直協機として使用された機体を挙げるのであれば他にも多い。
 機体の不足していた独ソ戦序盤には単座戦闘機が使用されたこともあり、さらには複座に改修された戦闘機(I-15bisやハリケーンなど)や複葉機U-2, レンドリース機のO-52なども使用されていたという。また、ごく小規模だがA-7オートジャイロによる観測機部隊が編成されたこともあった。また、専用の直協機としてOKA-38やAKオートジャイロ、Su-12などの機材も開発されていたが、これらは結局のところ採用されていない。当然ながら海軍でも観測機を使用している。これらをすべてまとめるのは今の自分には無理なので、興味がある方は調べてほしい。


参考文献とFurther Reading
・『歴史群像シリーズ 日の丸の翼』学研(2013)
九九式直協機の任務がわかりやすく解説されている。九九式軍偵の解説とあわせて、ソ連偵察機を調べる前に読んでおくと偵察任務へのイメージをつかみやすい。

ソ連の直協機(観測機)全般については、以下の書籍がある。
・Александр Широкорад “Боги войны. «Артиллеристы, Сталин дал приказ!»”, Алгоритм (2015)
ネットで検索している限り、第二次大戦期におけるソ連の観測機を扱ったものとしては、どうも雑誌”Авиация и космонавтика” 2015年3月号、4月号に掲載された”Артиллерийские эскадрильи в бою (Самолеты-корректировщики в годы Великой Отечественной войны)”という記事が詳しいようだ。彼の著書”Боги войны. «Артиллеристы, Сталин дал приказ!»”の8章には、観測機として使用された機体を扱っている。

・Николай Якубович ”ВСЕ САМОЛЕТЫ-РАЗВЕДЧИКИ СССР «ГЛАЗА» АРМИИ И ФЛОТА” Яуза (2016)
ソ連偵察機全般を扱った本だが、直協機として使用された機体も解説されている。


それぞれの機体については、それぞれの機体を扱った書籍の方が詳しい。
・Д.Б. Хазанов “Су-2 принимает бой. Чудо-оружие или «самолет-шакал»?”(2010)
・O.растренин”Штурмовик Ил-2” (2020)
また、R-10に関しては雑誌«МОДЕЛИСТ-КОНСТРУКТОР»の付録冊子«Авиаколлекция»2018年第7号で扱われている。

冬戦争における各ソ連飛行隊の活動については以下が詳しい。
・Carl-Fredrick Geust “Red wings in winter war 1939-40” MMPBooks (2020)

117-й OКРАПに所属していたパイロットへのインタビュー記事を以下で読むことができる。
https://iremember.ru/memoirs/letchiki-shturmoviki/minenkov-konstantin-ivanovich/


余裕があれば追記したい。そんな余裕はないと思うけど。

最近読んだ本20211026(主にソ連と北極探査について。前回の続き。)

最近読んだ本20211026(主にソ連と北極探査について。前回の続き。)

・Scott W. Palmer “Dictatorship of the Air: Aviation Culture and the Fate of Modern Russia”(2009)

 帝政ロシアと戦前のソ連が航空機に対してどのようなイメージを持っていたかについて。ODVF(航空友の会)や長距離飛行などの国内・国外向け航空プロパガンダが内容の中心になる。

 第一部では帝政ロシア期を対象に、航空機がどのように受容され、どのような普及活動が行われたか、またその実態について記述される。第二部では1920年代のソ連を対象にそこで行われた普及・啓発活動を記述し、第一部で語られた帝政時代と比較しつつ、同一点と差異に着目して特色を明らかにする。

 かいつまんで言えば、帝政期もソ連時代も、航空機はロシアの抱える広大な土地に起因する後進性を克服するための道具としてとらえられており、航空機の普及のために、また民間や軍の航空艦隊を創設する資金を集めるために、ODVFのような団体を創設し、会員を募ってゆく。ほとんど同じ手段を取りながら、しかしソ連時代においては当局がメディアを掌握していた点が大きく異なっており、その様子を示す際に表題の”Dictatorship of the air”が使われている。国内に向けた広報活動や、また国外に向けて様々なイメージアップが図られる様子を知ることができる。

 第三部では1941年までのスターリン時代を扱い、ANT-20による宣伝飛行とANT-25による長距離飛行を中心として、活動の詳細を記しながら、宣伝の要素や傾向を解説する。ANT-20による1933年の宣伝飛行ルートに、大飢饉の発生していたウクライナなども含まれていたという指摘には気づかされる。
 航空機をめぐる宣伝のあり方についても、初めは航空機そのものが威光を持っていたところから、20年代の後半には航空機を量産する工業を誇るようになり、さらに社会主義リアリズムの提唱される1930年代中盤には、航空機などの機械よりも英雄を称えることが中心となっているなど、時代を追いながら傾向を読み解いていくのがおもしろい。

 そういったややこしいことを考えなくても、ODVFの無秩序な拡大と統合にまつわるゴタゴタ話や、トラブル続きの宣伝飛行の実態とそれを成功と喧伝する新聞、プロパガンダと実態の乖離のような、裏話としての読み方も楽しむことができる。

 個人的に気になったのは、アムトーグや技術者の留学制度などを通じたソ連の航空産業とアメリカの関係性について記述されているところで、このあたりの話はあまり読んだことがなかったのでもう少し調べてみたくなった。特に、日本の航空産業について語る際によく話題に上るのと同様に、ソ連の航空産業って、工作機械などをどれだけ外国に依存していたんだろう。

 


・John McCannon ”Red Arctic: Polar Exploration and the Myth of the North in the Soviet Union, 1932-1939” (1998)

 

 戦前のソ連による北極探査について。北極探検の主体となったGUSMP(北海航路管理局)の成り立ちと、GUSMPの勢力拡大から失墜に至る1938年までを扱い、蒸気船チェリュースキンの救難や北極漂流基地の建設などのソ連国内の組織間の勢力争いや、個人間の権力争いも含めて、北極探検の裏事情を含めた多面的な理解を得ることができる。

 

 本書の内容は以下の本文がよく表している。(p.59より)

 1930年代の間、実質的に、ソ連には2つの北極圏が存在した。1つは前章で解説された、失策と犯罪、低水準な生活環境の北極圏だった。収容所の冷酷な北極圏だった。ただ試行と錯誤、骨の折れる努力によってソ連がわずかに前進させることができ、そして実際にそうした、荒削りな地域だった。ソ連の民衆に対してその多くが隠されたままになっていた、舞台裏の北極圏でもあった。  対象的に、2つ目の北極圏は民衆の目から離れることはなかった。これは英雄的な北極圏であり、栄光で満たされていて、考えられるすべての手段を通じて、ソ連市民の前で終わりのないパレードを行っていた。 4章と5章で詳細に論じられる過程を通じて、ソ連北極圏に対するパブリックイメージは、勇敢で伝説的な叙事詩となっていった。そして当然ながら、この大衆による消費を意図した北極圏は、事実と言うにはあまりにも出来すぎたものだった。 

 GUSMPというあまり認知度の高くない巨大組織の実態と盛衰について知ることができるし、ソ連による北極圏開発の一面として読むこともできるし、チェリュースキン号救難や北極観測基地設立などの英雄的な事項の解説としても読めるし、文章の端々に挟まれるエピソード(輸送の混乱で地域住民が10年以上使える量の歯ブラシが届く、シベリア先住民のシャーマンに対抗するために日食の予言をしたり悪魔に扮したりするetc...)は単純に面白い。また大粛清の時代にGUSMPが被った影響は破滅的ではあるものの内紛と世代交代としての要素も描写されており、具体的な一組織に対する一例として、大粛清のイメージを肉付けすることができると思う。北極圏の英雄物語を利用して名声を高めたシュミット、ヴォドピヤーノフ、パパーニンのその後の身の振りようも解説されている。彼らの著作を読んだことがあれば、ぜひお勧めしたい。


・Lennart Andersson “Red Stars Vol.6 Aeroflot Origines”, Apali (2009)
 戦前ソ連の民間機とそれを使用した組織を解説した図鑑。巻末には登録番号(СССП-Н-170など)と機種名、製造番号をまとめたリストがある。農業用に使用されたAP(U-2の農業用派生型)のシリアルが1000機以上並んでおり圧巻。GUSMPによって使用された機体も解説に含まれている(登録番号СССР-Н-○○○:真ん中の一文字が所属組織を表し、”Н”はGUSMP)。ドルニエ・ワール飛行艇から始まり、国産のP-5やSh-2、MP-1、G-1などが並ぶ間に、蒸気船チェリュースキン号救難に使用された後にアメリカから譲渡されたロッキード・フリートスターや、アメリカから輸入したダグラスDF-151などのマイナー機が見られる。民間機は軍用機と比べて多国籍で、また珍しい機体が少数だけ運用されることが多いようで面白い。


・Carl Fredrick Geust ”Red Wings in the Winter War” MMPBooks (2020)
 ヴォドピヤーノフは冬戦争に参加している。それも北極飛行用の派手な塗装のANT-6を使って。しかも爆撃まで行っているらしい。(本当に?)ともかく本書にはそうある。
 本書は冬戦争に参加したソ連航空部隊に注目して、個々の飛行師団や飛行連隊などの部隊を羅列し、それぞれの活動を記述している。資料集と呼んだ方がよい代物で、読み物として読むことは難しいものの、あまり知られていないソ連航空部隊の編制と活動がマイナーな直協部隊に至るまで記載されているので、うまく咀嚼して再構成することができればきっと楽しいはず。


・赤井謙一『交通ブックス218 世界の砕氷船成山堂書店 (2010)

 砕氷船の歴史、世界で使用されている砕氷船の紹介、砕氷船の技術的特徴、氷の性状などについて。
 砕氷船とはどのようなもので、どのように使用されるのかなどの基本的な事項が参考になる。
 本書とは全く関係がないが、著者が翻訳に携わっている『科学技術者の倫理 その考え方と事例』は技術者倫理の教科書として大変面白く、考えさせられるものなのでおすすめ。


・熊野谷葉子『ロシア歌物語ひろい読み:英雄叙事詩、歴史歌謡、道化歌』 慶応義塾大学出版会(2017)

 ブィーリナの入門書。読みやすいし値段も手ごろで、何よりすこぶる面白い。イリヤー・ムーロメツやドブルィニャ、スヴォトゴール、そして砕氷船の名前にもなったサトコーなどのキャラクターと活躍を簡単に知ることができる。前掲の”Dictatorship of the air”, ”Red Arctic”では飛行士が英雄として語られる上でブィーリナの英雄が解説なしに引き合いに出されることが多いので、合わせて読んでおけば置いてきぼりになりづらいかもしれない。(置いてきぼりになったので慌てて読んだ)

 

亀山郁夫『ロシア・アバンギャルド岩波書店(1996)
 ロシア・アバンギャルドの作品と思想について。新書。
その衰退に関わる社会主義リアリズムについての解説も少しある。

・ミシェル・オクチュリエ社会主義リアリズム』 白水社 (2018)
 前掲の『ロシア・アバンギャルド』で扱われていた時代と内容がかぶっているが、こちらでは作品の解説はなく、政治闘争の歴史を書いている。文章が難解。

 

 一通り読みはしたけども、このあたりのお話は雰囲気しか理解できていない。    
とはいえ”DictatorShip of the air”で触れられているように、ソ連邦英雄の設立は社会主義リアリズムの思想と無関係ではないのだし、そういったものは源流に向けてもっとさかのぼることができて、またこれ以外にも影響を与えているのだろうな、という印象があるのでもう少し広い範囲も含めて、思想面のお話も読み進めてみたい。

最近読んだ本とか20210523(主にソ連と北極探査について)

最近読んだ本20210523(主にソ連と北極探査について)


・ヴォドピヤーノフ 『北極飛行』 岩波新書 (1939)

 1937年、史上初の北極点漂流基地の設営は物資と人員を搭載した航空機で北極点に着陸することによって達成された。著者ヴォドピヤーノフはその編隊長機の操縦士であり、本書は北極点を目指す飛行の一部始終を記した冒険記。「岩波文庫ラシックス」として最近になって限定復刊されたもの。

 後書きによれば、本書は雑誌『ノーヴィ・ミール』1937年8月号と1938年に掲載された『如何にして空想(ゆめ)が現実となったか』を翻訳したものだという。また本文中の記述から推察すると、この「空想(ゆめ)」というのは著者ヴォドピヤーノフが北極への飛行前に執筆した小説、『飛行士の夢』を前提としたもので、これは架空の飛行士が北極への着陸を成し遂げるもののようだ。
 北極飛行の過程を記した本書の題名が「如何にして~」となっているのは、あらかじめ小説に書いた「空想」をヴォドピヤーノフが実際に成し遂げたことからとっているのだろう。

 刊行時期が古く、現在ではカタカナで表記する言葉に旧字が使われているので最初は面食らうかもしれないが、少しだけでも、例えば「模斯科(モスクワ)」、「瓦斯(ガス)」だけでも読めてしまえば後は雰囲気で読み通せる。

 極地飛行のためにあつらえられた特別性の機体とともに、厳しい天候やトラブルに見舞われながらも見事に任務を達成する、冒険記の王道のようなイメージがある。  
 使用される機体には、視認性を上げるための特別塗装や不整地着陸のためのドラッグシュート、エンジン間で冷却液共有を共有して暖機運転を短縮する改造、おなじみエンジンカバーやヒータを仕込んだオイルタンクなど極地用の改造がなされていて、飛行機ファンの目線からすると、それらの解説もあって嬉しい。

 また、北極点を目指す機体は4機のANT-6(TB-3)と1機のANT-7(R-6)であって、ふだんは脚光を浴びることのないANT-7が本隊に常に先行して天候の観測を行ったり、ついでにソ連初の北極地点上空飛行を成し遂げたりと大活躍しているあたりもおもしろい。他にはU-2やR-5が登場する。

 執筆時期が時期なだけあり、出発前と帰還後には党やスターリンを賛美する文章が並ぶが、これについては1939年に書かれた訳者後書きでも「最近あの血生臭い粛清の嵐が吹きまくった後では、ソヴェート国民一般に共通のものとなっているこの護身術も、当然すぎる程である。」と一定の理解を示している。

 ところで北極に観測所を設立した後、参加した4機ANT-6のうち1機だけ、航法士アクラートフが乗る機体は不測の事態に備えてルドルフ島に留まることになり、これが恐らく、アクラートフ『北極への挑戦』の冒頭につながっている。とはいえヴォドピヤーノフとアクラートフのどちらも互いの名前くらいしか書いていないので、両書の共有点はルドルフ島でアクラートフが30年程前のツィグレル(ジグラー)隊のキャンプを発掘した描写くらいのものだ。

 

・イ・デ・パパーニン『パパーニンの北極漂流日記東海大学出版会(1979年)
 こちらはヴォドピヤーノフらによって北極点に運ばれて、基地を設営して観測を行ったパパーニンによる日記。著者による前文「北極へ」は、この北極点基地を設営するに至った背景が記されており、他書よりもこちらを先に読んだ方が全体像を把握しやすい。

 本書は北極上に着陸した5月21日からの一日ごとの日記として書かれている。人手のかかる基地の設営を終えて、無駄飯喰らいである飛行士たちを北極点から追い出したあとは、パパーニンら4人の観測研究と、自然との戦いの日々が続く。これもまた優れた冒険物語だと思う。

 氷上の生活は、次第に割れていく氷や氾濫する雪解け水、悪天候や低温に対処しつつ、その合間に観測研究を行う、不眠不休と言っていいような厳しいものである一方で、苦境をユーモアで乗り越えようする雰囲気があったようだ。本文中にもそれは遺憾なく発揮されており、例えば海水採集器を深海から引き上げられなくなったのを「グリニッジ子午線に引っかかった」とネタにするようなことの繰り返しで、読んでいて楽しい。

 また北極点へ基地を設営する試みは世界初だったのだから、当然のようにそこで観測されるもの、重力や地磁気、生物、海流などはすべて新発見であり、何かが明らかになるたびに発見の喜びと高揚感に包まれていて、これも読んでいて気分が良い。また思い出したように思想教育を計画して「時間がないので実施できない」とする描写が何度もあるが、これはアリバイ作りなのだろうか。


 本書を読んで強く印象に残るのが無線の活躍で、本国との連絡はすべて無線なのはもちろん北極点を通過する航空機と交信したり、民間との交信キャンペーン(北極基地と交信できると商品がもらえる)があったり果てはハワイやオーストラリアも含めた世界中と交信している。もっとも雑誌記者からの質問「どんな本を読みますか」などのどうでもよい質問に辟易しながら、忙しい観測生活の合間をぬって文字数制限内で回答を作成する様子も書かれており、何も便利なだけではないようだ。

 飛行機ファンとして注目するところもいくつかあり、例えば北極点での任務のうちには、同年にアメリカに向けて長距離飛行に出発する2機のANT-25(チカロフ機、グロモフ機)との通信も含まれており、その時の様子も描写されている。その後同様にDB-Aで長距離飛行を試みたレヴァネフスキー機の失踪も同様で、この時は酷い悪天候に見舞われていたようだ。
 また、漂流するうちに小さくなってゆく氷盤からパパーニンらを救出するために派遣された砕氷船ムルマン号にはスキーを装備したR-5と、水陸両用機Sh-2が搭載されており、これらの機体の頼もしさを感じることもできる。砕氷船からクレーンで水面や氷上に下して使用するのだが、このような機体について調べたくなる。

後書きではパパーニンの経歴が解説されていて、十四歳で見習い旋盤工になり、その後黒海艦隊に服役し、内戦で頭角を現したことが書かれている。1941年10月には北方輸送に関するソビエト防衛国家委員会の最高責任者になり、ムルマンスク等の湾港設備拡充と北方航路の輸送を指揮したという。

 

 


・佐々木路子『ロシアの地理的「探検」と「発見」』、之潮(2019)

第3章、『ロシア人が語る「地球発見物語」』は、ロシアの学習参考書である『6-7年生用の学習参考書 地理的発見の歴史』から著者が興味を抱いた事項を抜き出して紹介するもので、本書の2/3を占めている。 その中で北極探検について書かれているのは30ページ強と少ないものの、有名な探検行とその成果(あるいは実態)が簡潔に、エピソードも交えながらまとめられていて、飛行船や飛行機による探検にも触れられている。

 ソ連時代の評価に対してバランスを取ろうとするような記述がなされていることに気づく。 例えば北極探検の先駆者であり悲劇の英雄として語られてきたセドフにはその実態に辛辣な評価を下しつつスターリン時代に作られた英雄像であることを指摘し、歴史から消された探検家として白軍のコルチャークを紹介し、またドイツ主導の飛行船による国際協同探索に参加した教授が 後に粛清されたことに触れている。
 パパーニンらについても彼らの偉業をかなり肯定的に解説しているが、無線手クレンケリの告白として、彼とパパーニンは時折激しい気性を抑えられず爆発させることがあった、と記述することで一方的な英雄化からは距離を取っているように感じられる。

 ところでコルチャークが捜索した「サンニコフ島」は後に航空機と船舶による捜索の結果存在しないことが判明したのだが、これはアクラ―トフ『北極への挑戦』でも触れられている。


・亀田真澄「飛ぶプロパガンダ : 一九三〇年代アメリカとソ連における飛行の表象」
(https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/55107#/.YKoIhagzbIV)

北極飛行の概略と、そのプロパガンダ的機能について。


・塚崎今日子「北極の英雄たちのノヴィナ――1930年代ソ連による北極征服とソヴィエト・フォークロア
(https://www.jstage.jst.go.jp/article/yaar/45/0/45_139/_article/-char/ja/)

北極圏の英雄を題材とした創作フォークロアについて。

・坂内徳明「ソ連民俗学の形成 : 一九二〇年代前半のユーリイ・ソコロフを中心として 」

1920年代のソ連民俗学について。
ウラジーミル・プロップ昔話の形態学』の背景として。


・神沼克伊『みんなが知りたい南極・北極の疑問50』ソフトバンククリエイティブ(2010)
南極と北極の環境について知りたいのであれば、最初の1冊として良い本だと思う。
読みやすいからと言って内容が簡単なわけではない。1958年の国際地球観測年(IYG)と南極探査の関連について初めて知ることができたのが収穫。


・『ジュニアサイエンス 北極・南極探検の歴史』丸善出版(2016)
翻訳前の原題は「子どものための極地探査」。子ども向けではあるけど読みごたえはあるし、探検史として最初に手に取るのによいかも。航空機関係としては、リチャード・バードによる南極点上空飛行が取り上げられている。


・クライブ・ホランド『北極探検と開発の歴史』同時代社(2013)
 原書の題名は「Arctic Exploration and Development, c.500 B.C. to 1915」
紀元前から1915年までの期間に行われた北極圏探索を列記したもので、探索1件1件を数行で要点を記述したものが470ページ続く。おまけとして付属するダイジェスト版なら読み物として読めるかもしれない。
 物理書籍として出版しようとしたけど高額になるし販売数が読めないからやむなく電子書籍(CD)として出版した、ということが後書きに書いてあるけど、電子書籍になったことで検索性が大変良くなったので、利用価値はむしろ向上してると思う。気になった人物や時代を拾い読みするのに向いてる かもしれない。
扱っている時代が時代なので、航空機関係はナグルスキーらによる北極圏最初の飛行くらいしかない。飛行船を利用しようとした試みについてはいくつか記載されている。


その他読んでないもの
・John McCannon ”Red Arctic: Polar Exploration and the Myth of the North in the Soviet Union, 1932-1939” (1998)

ソ連の北極探査について。


・Scott W. Palmer “Dictatorship of the Air: Aviation Culture and the Fate of Modern Russia”(2009)
ロシア・ソ連の航空に対するイメージについて

・Андрей Почтарев “Полярная Авиация России 1914-1945 г.г.”
ロシア・ソ連の極圏航空について。600ページ弱の鈍器。上巻は物理書籍しかない。

・Андрей Болосов “Полярная Авиация России 1946-2014 г.г.”
ロシア・ソ連の極圏航空について。電子書籍。ワンコインで投げ売りされている。
1955年からのソ連の南極探査では北極と異なる環境に苦労していることがわかる。

【メモ】F.W.メレディス「ダクトに囲われたエチレングリコール冷却器に特に関連した航空機エンジンの冷却」について

2021/02/03 全体的に誤認していた部分を修正

2021/05/01 加筆 

 

メレディス効果」の発端となった報告書を読んでみたので忘れないうちにメモする。正直なところ十分に理解できておらず式もすべて追えていない。また関連文献も読んでおらず周辺分野の知識もないので解釈の妥当性は保証できない。もし何かの参考にするのであれば原文と突き合わせて読んでほしい。
 
報告書は以下のURLで読める。
Aeronautical Research Committee Reports & Memoranda No. 1683
(https://reports.aerade.cranfield.ac.uk/handle/1826.2/1425
数式を用いた理論的検討ではあるけど、使用される式は難しいものではないので、流体力学と熱力学に触れたことがあれば読めると思う。

 

要旨は以下(翻訳抜粋)
――――――――――――
 要旨 (a) 導入 (調査の目的)  近年の航空機の高速化によって、冷却抵抗の問題は顕著になり、低速冷却の原則を適用することが迫られている。更なる研究と設計のための指針となる、ダクトに囲われた冷却システムの性能解析が求められている。
(b) 調査の範囲 ダクト式冷却器の理論が発展し、抵抗計算の基礎が得られた。
 圧縮性の影響も調査された。
(c) 結論  適切に設計されたダクト式システムでは、冷却によって消費される動力は速度にともなって増加せず、それだけでなく廃熱による回復によって300mph程度の速度では推力が得られる可能性がある。
 高速飛行中の排気ガスの運動量の重要性に注意が向けられた。
――――――――――――
 

内容については以下。
メレディス効果の後世における評価はともかく、この当時の問題意識は1.序論に示されている。冷却器における熱移動は必然的に表面摩擦抵抗を伴うが、速度が増大すると、熱交換量の増加量よりも抗力による動力消費量が飛躍的に増えてしまう(冷却器のサイズを都度適切なものに調整した場合でも、動力消費量は飛行速度Vの2乗に比例する)。表面冷却方式を使用しても、抵抗は全く増えないわけではないし(そうなの?)、使用できる表面が限られている以上、後は温度差を稼ぐしか発展の余地はない。そこで注目されるのが冷却器を適切に設計されたダクトで囲い、冷却器を通る空気の流速を下げることで冷却面における動力消費量を低減する方式なのだが、ここで著者Meredithはさらに、冷却システムを上手く設計することによって、むしろ速度が増加するごとに動力消費量が減少していき、ある速度以上では逆に推力を発生させることを示そうとする。

 

 速度の増加に伴う動力消費量の増加については、具体的には円管内乱流の圧力降下についてのDarcy-weisbachの式とBlasiusの式(圧力損失は流速の1.75乗に比例)、また動力消費(仕事率)は圧力損失に体積流量を掛ける(→流速の2.75乗に比例)、また熱伝達についてのDittus-Boelterの式(熱伝達率は流速の0.8乗に比例)を思い出せば教科書的な知識と結び付けられるはず。
 冷却器のサイズを調整しても…というくだりはポリカルポフのR-5やVITで採用されたような引込式の冷却器の限界も示していて、適切に引き込んだところで速度が上がれば抵抗が一気に大きくなることは避けられないことがわかる。それに対して冷却システムを適切に設計すれば、速度が上がるほど抵抗が下がるというのだから、それが本当であれば非常に画期的だ。

 

以降の本文では理想的な冷却器の性質を検討した上でそれを以降の計算条件として設定し(2章)、それ以外にもいくつもの仮定を立てながら、冷却器を通過する空気について理論的な基礎式を立てて、ダクトの有無による効率を求めて(3章)、空気の圧縮性による影響が冷却器の性能や動力消費量に与える影響を検討し(4章)、最終的に、冷却器において消費される動力(仕事率)と熱交換により回復される動力の収支を求める(5章)。その関係式は特定の条件下を仮定して簡略化され、飛行速度Vと、「冷却器が自由に空気に曝される(=ダクトに囲まれていない)場合に、要求される熱量を移動できる速度」V0、そしてエンジン出力で表される関数として表される。なおメレディスはその際、エンジンの排気熱をすべて冷却器の排気に加えた場合と、エンジンの排気熱を利用しない場合(=冷却器を通じた熱交換のみ想定する)の2パターンに対して式を求めている。 

排気熱をすべて回収する条件については、冷却器の下流にフィン付きの排気管を取り付けることで達成できるかもしれない、と書かれているが要するにアイデアであり、実用的な条件ではない(はず)。なので実際の航空機を考える場合は、冷却器を通じた熱交換のみ想定する以下の式(30)を見た方がよさそうだ。

 

\frac{100(E'-E)}{BHP}=0.177(\frac{Vmph}{100})^2-1.725(\frac{V_0}{100})^2 …(30)

 

この式のV, V0に値を代入した場合の結果はTable 2に示されているがそちらは本文を見ていただくとして、とりあえずこの式について見てみる。左辺はエンジンの動力に対する冷却器を通過する空気の動力収支の%割合を示しており、右辺第一項は入熱による動力の回復量を、第二項は冷却器で消費される動力を表している。右辺第一項の値はVmph=300では1.6%になるので、そもそもこの程度のオーダーの話であることを認識したほうがよいのかもしれない。Vの2乗に比例するとはいえ、450mphでも3.6%程度だし、そこから右辺第二項の値を差し引かなければならない。

 

 なお右辺第一項の係数が第二項の係数の1/10なので、この式はV/V0が3程度の場合にゼロになる。V0の値は実際のダクト内の流速とは関連付けられていないが、3.2節ではダクトに覆われていない冷却器を通過する速度V(1-a)は実際のところ(1-a)=0.6程度になるとも語られているので、それをもとにすれば、飛行速度の20%程度までラジエータ内の流速を下げることができてようやく収支がゼロになる、ということになるだろうか。

 

一方で、式(29)はエンジンの廃熱をすべて回収した場合の動力収支%を示しているが、こちらで得られる動力は排気熱を利用しない式(30)の5倍になり、抵抗を差し引いた動力収支は、V=300, V0=100mphの条件ではエンジン出力の5%程度になる。

 

要するに、右辺第一項は速度Vの二乗に比例して増加するので、確かにMeredithが要旨で述べた通り、(総体的に見て)速度の増加に伴って冷却器で消費される動力が減少するし、右辺第一項が右辺第二項を上回るのであれば、推力が発生する可能性がある。とはいえそれは結局のところ、冷却器で消費される動力と、加熱された空気によって発生する動力の収支によって表されるものであって、それぞれが実際にどのような値をとるかによって状況は異なるものになる。加えてこの報告書では不要な抵抗のない理想的な冷却器を仮定しているし、エンジンの排気から熱を回収しない限り、そもそも得られる動力は非常に小さい。それを踏まえると、推力の発生、という表現には少し慎重になったほうがよいかもしれない。

 

なお、この報告書はあくまで理論的な検討であり、計算を進めるにあたって仮定されている理想的なラジエータの条件はいくつも示されているのでその点は示唆的とも言えるかもしれないが、より実際的な設置方法、つまりどこに冷却器を置くべきかという話はほとんど含まれていない。せいぜい、胴体内か翼内に冷却器を設置すれば外部表面積が増えないので表面摩擦抵抗は増えないだろう、という程度だ。

 
また排気ガスの運動量の利用については最後に考察されているが、本文に「この動力源から利用可能な動力を推定する試みはここでは行わない」と書かれている通り、可能性が述べられるだけにとどまっている。そもそも先に見た通り、エンジンの廃熱をすべて回収利用しない限り、冷却器で回復される動力は非常に小さい値なので一般的な飛行機には当てはまるものではないのでは、と思う。

――――――――――――――――――――――――――― 
以下、読んでいて気になったことについてメモする。 

 

・この報告書では冷却器において発生する抗力を分類して、発生が避けられるものは無視している(=理想的な形状の冷却器について検討している)。したがって、この報告書で扱われる冷却器の抵抗は、ほとんどが冷却器の冷却面で不可避的に発生する摩擦抵抗であって、実際のダクトで発生する諸所の損失は含まれているわけではない。(一応ある程度の損失がダクトの入口で発生するものと仮定しているが、それも全体の損失の1割程度でしかない)

 
・「3.完全流体の中で動作するactuator discとして扱われる冷却器」で突然現れるactuator discがよくわからなかったけど、これはどうも流路の途中に流れに垂直に置かれた板状の装置を想定して、それを通じた動力の出入りを考えるもののようだ。
また、 式(12)の導出で展開と書いてある部分はマクローリン展開を用いればよい。

 
・4章で空気の圧縮性が与える影響を検討しているが、ここで4.1節では断熱圧縮による温度上昇を仮定し、4.4節の過程で理論の単純化のために等圧加熱を仮定し、その後の膨張による温度上昇係数として断熱膨張のものを使用しているので、空気は断熱圧縮→等圧加熱→断熱膨張の過程を経ることになり、つまりメレディス効果について語られる際にしばしば言及されるように、一種のブレイトンサイクルが成り立っている。

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(2021/05/01追記) 本文中ではブレイトンサイクルや類似した言葉は全く使われていない。なのでメレディス自身がブレイトンサイクルを想定して仮定を導入したのかはわからないし、もしかしたら、後になって一種のブレイトンサイクルが成り立っていることを指摘されたのかもしれない。知らんけど。

 空気の圧縮性が与える影響について述べたこの4章4.1~4.4節のうち、4.1~4.3節までの結果は補正係数として扱われるだけのものであるのに対して、4.4節はメレディス効果そのものである、加熱された空気が膨張する過程で利用できるエネルギーを求めている。

もし重要な部分だけ読みたいのであればここを読めばよさそうだ。

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・式(30)以外にも報告書内で何度も「冷却器が自由に空気に曝される(=ダクトに囲まれていない)場合に、要求される熱量を移動できる速度」V0、という迂遠な表現が使用されいるけど、これは同じ熱量を移動できる速度である場合、冷却器内を通過する流速が同じであることを表していて、つまり冷却器内で発生する抗力、動力消費も同じであることを利用している(はず)。5章ではこの動力消費量と冷却器全体の動力消費量の比をとって、ダクトがある場合とない場合の動力消費量の比率を仮定することで、既存の冷却器で得られた動力消費量のデータを理想的なダクト式冷却器の動力消費量に換算している。
 
以上、とりあえずメモした。
関連文献もそのうち読んでみたい。

 

最近読んだソ連航空本_2020-05-13

最近読んだソ連航空本_2020-05-13

 

最近というかここ半年くらい。

 

James Sterrett, “Soviet Air Force theory, 1918-1945” Routledge (2007)

 1918年から1945年までのソ連航空戦力の運用理論の推移とその実践を追ったもの。前半では戦前の出版物をもとに時代ごとの空軍のあり方や運用に関する議論を整理し変遷を追っていて、後半ではソ連空軍がスペイン内戦からWWII終戦までにどのような教訓を得て、またそれを反映したのかを記述している。

 前半の内容は類を見ない貴重なもの。これはあまり語られることのないソ連の航空戦理論について述べたものだから、という点に加えて、航空戦理論を対象とした十数年にわたる議論を追うことができるから、という理由もある。議論の中で現れる航空戦の性質や、ソ連空軍がが何度も悩むことになる、密接な陸軍直協をとるか、航空戦力の集中運用をとるかというジレンマなどはソ連に限った話ではないはず。

 

 後半は一般的な戦史と内容が近くなってしまうけど、前半の議論を踏まえて、戦前の理論との相違を見ることができるのは本書ならでは。また後半の内容は要点をつかみやすい文章なのでこれだけ単独で読んでも面白い。著者の文章が上手いのも一役買っているかも。

 

 本書に通底する著者の態度は、以下の文に強く表れている。(p.10)

(…) Clearly, given the availability of transrated material from abroad, Soviet aviation theory did not develop in a vaccum. However, the Soviets clearly were not slavishly copying notions from abroad. Notions that fit well with their own were taken in, and those did not were generally left aside. Moreover, the central tenets of Soviet airpower theory, consentration of force and supporting the ground forces, appeared very early and received little donestic challenge.

Western influence may have been tangential because its focus tended to be different from that of soviet theorists, a problem which in turn afflicts western writing about the Sovet Air force. Western writers have reflected this difference in focus by largely ignoring the topic of the Soviet Air Force's thery and doctrine, and the few look at the topic tended to miss the point by searching for supporters of city busting strategic bombing, refrecting the preoccupation of the west. (…) As wil be seen in this chapter and the next, the Soviets harboured deep doubts about the value of strategic bombing. Attempting to see their doctine through the lends of the Western emphasis on strategic airpower distorts our view. Soviet airpower theory developed along lines determined by its own conditions and along its own internal logic. (…) In the Soviet Union, the issue of airpower subordination followed very different lines because, just like the other continental powers, the Soviet Union could not ignore the strategic reality of a hostile land frontier. If the land army suffered defeat, the air force's airbases would be promptly be overrun. The prevalence of the notion of the air force subordination itself in large measure to the needs of the land forces was not a failure of imagination, but recognition of reality.

 

 要するに(ソ連では重視されなかった)戦略爆撃ではない、ソ連空軍が置かれた状況に即した航空戦理論について注目していて、そしてその中心が戦力の集中と地上軍の支援であった、というお話。

 

 

R. ムラー, 『東部戦線の独空軍』, 朝日ソノラマ1995

 上記のドイツ版といったところ。航空支援システムや戦線をまたいで攻勢正面に自在に移動する航空部隊などの解説が具体的で詳しいのでイメージを補足できる。こっちを先に読んだ方がよかったかも。ドイツ空軍独自の思想や用語にも詳しいうえ、先のStarrettの著作と論点が重なっているため比較できる部分が多い。

 独ソ戦が始まってから地上部隊の支援にかかりきりだった独空軍が、戦争後半になってから戦況を打開するために戦略爆撃を計画して戦力の抽出と訓練を行うものの、準備中に前線が後退してしまい目標が爆撃機の行動範囲から外れてしまう、という終盤の展開は何かの象徴のようにも思える。

 

 

Williamson Murrey 『戦略の形成 下』, 筑摩書房 (2019)

 下巻第十六章「階級闘争の戦略―ソヴィエト連邦 (19171941)」だけつまみ読み。ソ連の航空関係でもよく引用される「野戦操典」(PU-36, PU-39など)ってどんなもので、年度ごとにどんな違いがあるの?というお話が気になっていたので。戦略まわりの時代背景を日本語で読めてよい。

 

 

Alexander Boyd, “The Soviet Air Force Since 1918”, Stein and Day (1977)

 ソ連空軍の歴史。James Sterrettが先行研究として挙げていたので読んだ。古い本なので飛行機の解説は時代相応のものだけど、組織の変遷や人事に詳しく、また多くのページを割いているわけではないが、大粛清が空軍と航空機産業に与えた影響や、航空機工場の疎開について書かれた部分は類書の中でも詳しく、秀でている。

 

 

・マーチン・ファン・クレフェルト 『エアパワーの時代』 芙蓉書房出版 (2013)

大戦期のソ連空軍について書かれた部分とその参考文献を拾い出し。各国の状況を概説して比較しつつ時代ごとの傾向を見ていくの形式なので込み入った話までは展開されない。

 

 本書では大戦期のソ連空軍を地上部隊の指揮官に隷属するものとして、独立空軍に分類していない。またソ連戦略爆撃機部隊が一度も登場しなかった、とも書いた上で、さらにその原因がスターリンにあるとする著述家もいるとして、Viktor Svolovの著作を挙げている。(p.89)

 彼に関してはあまり良い噂を聞かないけどやっぱ読まないといけないのかな、とりあえず上記についてその意味するところや実態を掘り下げたいなどと思った。

 

 あと「フォッカーD31(p.118)とか「LaGG-3地上支援機」(p.145)とか細かい部分が気になってしまう悪い癖が抜けないのでなんとかしたい。

 

 

Geust-Keskinen-Stenman, “Soviet Air Force In World War Two” AR-KUSTANNUS OY (1993)

 

フィンランド人研究者らが出版したソ連空軍の飛行機写真集。巻末の数ページに短い解説記事があり、ソ連空軍の組織やソ連邦英雄、親衛隊、戦闘機エースのリストなどの資料がある。今となっては他の書籍やメディアで見ることができるので、わざわざ入手するほどのものでもないはず。

(ページの半分にも満たないごく短いものではあるが、対フィンランド戦で発生したタラーンのリストや、1944年にフィンランドを枢軸から離反させるために行われた長距離爆撃機部隊によるヘルシンキ空襲の解説があったりするのは珍しいけど)

 

 モーガン 『第二次大戦のソ連戦闘機エース』の巻末(p.82)に掲載されている4つのエースリストのうち、ゴイスト、ケスキネン、ステンマン版(1993)が本書じゃないかなと見当をつけていたけど、どうもちょっとだけ数字が違う。別の資料があるのかも。

 

 

 独ソ戦といえばまず近接航空支援を連想するの対して、ソ連フィンランドの戦争では都市爆撃が無視できない程度に印象を占めている点が今のところ気になっている。ところで冬戦争を除けば、ソ連空軍を対象とした書籍ではフィンランドとの戦争はあまり注目されない傾向があるように思う。なので疑問を解消するにはフィンランド側に焦点をあてた書籍を読んでいくしかないのかな、というのがいまの感想。

【読書メモ】『ノモンハン空戦記』ア・ベ・ボロジェイキン

ア・ベ・ボロジェイキン『ノモンハン空戦記 ソ連空将の回想』弘文堂(1964)

  

・この本について

 ソ連の高位エースであるアルセニー・ワシーリエビチ・ボロジェイキンによるノモンハン空戦記“Истребители” (1961) を翻訳したもの。訳者前書きによれば、原書の第一章を省略し、それ以外の一部風景描写などを抄訳にして簡潔にしているという。全193ページのうち144ページまでが本文であり、それ以降は訳者によるノモンハン戦史の解説となっている。

 著者ボロジェイキンはノモンハンで6機を撃墜し、第二次世界大戦でも多数の撃墜を記録したエースパイロットであり、二度のソ連邦英雄を受賞している。戦後は軍に残り、最終階級は少将。1957年に退職した後、作家として活動したという。

 

・内容について

 回想は、著者の所属する部隊が6月にモンゴルに移動した後の、6月22日の出撃から始まる。戦闘の様子は敵味方の動きを含めて克明に描写されており、それゆえ参戦当初は訓練と実戦経験の不足、また無線を搭載していないことに起因する不手際の、もどかしい様子も多い。「われわれはまだ対地協力戦闘に無経験だった」「いかなる戦闘形態が最適なのか、われわれにはわからなかったのである」「われわれは移動目標の正確な射撃訓練を欠いていた」「だが、このような戦闘隊形が、爆撃機の援護に適していないことに気づいたものはいなかった」など、経験の不足と戦術面の未熟さが率直に語られている。

 

 それらに対応するように7月の始めには、新任の連隊長であり、日中戦争に参加しソ連邦英雄を受賞したグレゴリー・クラフチェンコによる戦術指南が行われており、これに多くのページが割かれている。そこでは具体的で実践的な戦術指導、つまり彼我の戦闘機の性能を考慮した一撃離脱戦術や背後に付かれた場合の離脱方法、また対地攻撃時の対空火器制圧チームの必要性などが語られている。また実戦経験を積むに従って戦術も練り上げており、場合に応じて適切な隊形を選択する様子が描写されてゆく。

 

  一日に多い時には5-8回出撃するという戦闘の激しさも際立っている。自身の非撃墜や事故について、著者は連続出撃による体力の消耗を第一の原因として挙げている。

 

 本書はノモンハンで戦ったソ連戦闘機エースの手記というだけで貴重だが、それ以外にも注目すべき点がいくつかある。

 まず、著者は戦闘機I-16のパイロットだが、対空以外の戦闘にも多く参加している。7月には著者の所属する部隊は機関砲搭載型のI-16を使用して対地攻撃を行っている。その後には、著者は8月1日から独立戦闘機偵察中隊に配属されており、敵情の偵察や敵飛行場への強行偵察を行う様子も記述されている。

 著者はまたコミサールでもあり、そのためか、家族との関係に悩む同僚に気を配ったり、行方不明になった僚機が亡命したのではと疑ったり、その嫌疑が晴れたあとに自分の思考を恥じたりというエピソードもある。飲酒して出撃する中隊長に対して忠告するに留めるなど、ここに書かれる著者の態度は同情的で、かなり甘いように思える。

 

 

・関連書籍

 

  • Milhail Maslov “Polikarpov I-15, I-16 and I-153 Aces” Osprey Publishing (2010)

 ノモンハンの航空戦を扱った章の一部で、ボロジェイキンの回想が引用されている。(引用元は明記されていないが、『ノモンハン航空戦』に書かれたものと同内容)。ただし、回想の引用以外にはボロジェイキンについてほとんど述べられていない。ボロジェイキンの乗機としてType 17の側面図がある。

 本書が扱う範囲はスペイン内戦から中国、ノモンハン、冬戦争、第二次世界大戦と広く、その分記述は浅いが、紹介されるエピソードには面白いものがある。

 

  • George Mellinger “Yakovlev Aces of World War 2”, Osprey Publishing (2005)

 ボロジェイキンは第二次大戦でYak系の戦闘機に搭乗していた。本書ではボロジェイキンの撃墜戦果を個人52, 共同13としており、Yak系の戦闘機を使用したエースリストの首位に置いている。また彼の戦歴について3ページほど記述されているほか、彼の乗機であるYak-7Bの側面図もある。

 

  • D・ネディアルコフ『ノモンハン航空戦全史』芙蓉書房出版(2010)

 ソ連側の資料を用いてノモンハン航空戦の全容を描いたもの。著者はブルガリア空軍大佐。

 幾つかの事項についてボロジェイキンの原著”Истребители”が参照されている。併せて読むと全体像が把握できてよい。

 

 「航空機戦編」と題した30ページほどの章で、『ノモンハン航空戦』を主軸において航空戦の概略をまとめている。

 

 「ノモンハン航空戦」と題した30ページほどの章で、ボロジェイキンを含め日ソ双方の資料を用いて航空戦の総括を行っている。