【書評】『北極への挑戦 極地パイロットの手記』B・アクラートフ

B・アクラートフ『北極への挑戦 極地パイロットの手記』講談社 (1967)

 

・この本について

 1930年代から70年代始めまでに北極探査で活躍したソ連の航法士Valentin Akkuratovによるエッセイ集。自身の回想を絡めつつ北極探査の歴史や北極圏の町の様子を紹介し、そして何より、自身の探査飛行のエピソードを臨場感あふれる筆致で記述している。著者は作家としても活動しており幾つかの著作があるが、あとがきによれば本書はロシア語の書下ろし原稿を日本語に翻訳したもので、ロシア語の原書は (少なくとも出版当時は) 存在していないという。

 彼の経歴は本書あとがきで紹介されているが、同様のものとしてはWikipedia (露語版: Аккуратов, Валентин Иванович — Википедия)の記事も詳しい。北極探査を通じて数々の飛行歴をもつ。受賞も多数。また本書では語られないが、冬戦争や第二次大戦にも航空機搭乗員として参加している。Li-2やPBY Catalinaを乗機としてモスクワ疎開レニングラードへの輸送任務、北極圏における流氷の観測に携わったほか、長距離航空部隊ではPe-8に搭乗し、102回の出撃経験を持つ。

 訳者はトルストイソルジェニーツィンをはじめロシア文学の翻訳を数多く手がけている木村浩

 

・内容について

 本書の冒頭は、1937年にDB-A爆撃機で北極点を通過した後に行方不明となったレヴァネフスキーらの捜索を任務としていた著者らが、北極において一人の探検家の墓を見つけるところから始まる。その付近にはアメリカ人北極探検隊のキャンプが遺棄されており、またその中からは、なぜかイタリア国旗が見つかった。この墓は誰のもので、アメリカ人探検隊はどのような経緯をたどったのか、またなぜイタリア国旗があるのか?これらの疑問を、キャンプの「発掘調査」を通じて得られた情報をもとにして、過去の北極探検隊の歴史を紐解いていくことで明らかにしていく。次いで内容はロシア人探検家の足取りに及び、極圏の町の歴史、北極海航路の開拓史、etc…時代や場所を移しつつ、本書の前半では北極圏の様子と開拓史が紹介される。また同時に北極の自然の厳しさ(「北極の陰険さ」と著者は一部で表現している)が描写され、困難に立ち向かう探検者の精神が称えられる。

 氷砕船チェリュースキンの遭難事故とそこで救援のために航空機が活躍したこと、それ以降航空機が流氷の観測に従事していることに触れたあと、本書の後半では北極におけるもう一つの航空機利用、つまり著者自身が参加した航空機を用いた北極探査行が描写される。地図の空白地点を埋めて、未発見の島を発見し、あるいは地図に記載されている島が存在しないことを発見する…これらの成果が得られた行程が、直面した困難や発見時の喜び、隊員の間で交わされた会話とともに、臨場感あふれる形で表現するのは当事者ならではだろう。着陸した飛行機の中で予想外の吹雪に耐える、エンジンの故障、機位喪失、ホッキョクグマとの度重なる遭遇、着陸地点の氷が割れて水没、遭難…多くの困難は無事に切り抜けられているが、一つ一つが死につながる過酷なもので、使用する道具が近代化したとはいえ、著者らが立ち向かっている自然は前半で描写された、過去の探検隊を拒んできた過酷なものであることが思い出される。

 

 本書の内容は北極の開拓や探検中心としているため、著者が登場している飛行機そのものへの言及はほとんどなく、あってもわずかに機体番号(CCCP-H-xxx)だけ記される程度だが、検索するとそれらの機体がPS-7(R-6の民間機型)やDB-A、G-2(TB-3の輸送機型)、PBY Catalinaなどであることがわかり、北極圏で使用された多様な航空機とその情景を思い浮かべることができるし、ソ連機を調べていると目にする北極探査用の機体がどのように使用されていたのかを、間接的ながら、本書を読むことでその片鱗をつかむことができた。

 

 全体として、文章は非常に綺麗で読みやすく、内容は発掘と推理や歴史、冒険と多岐にわたるため飽きることはない。この時代の北極探査に携わった当事者の著作というだけで貴重なものだが、そのうえ作品として面白い。北極探査そのものや、北極圏の航空活動に関心がある人にはぜひお勧めしたい。

 

【書評】Mikhail Maslov, “Soviet Autogyros 1929-1942”, Helion & Company (2015)

Mikhail Maslov, “Soviet Autogyros 1929-1942”, Helion & Company (2015)

 

 ソ連オートジャイロを扱ったモノグラフ。解説はソ連のヘリコプター黎明期からオートジャイロ開発の経緯まで解説するIntroductionから始まっており、戦前戦中のヘリコプターとオートジャイロの開発史としても読むことができる。本文ではソ連で開発されたオートジャイロが各機2ページ程度の文章と数点の写真で解説されている。最も成功したA-7オートジャイロについては本書の後半で特別に扱われていて、機体の仕様や運用の経過がより詳細にまとめられている。 

 

 全148ページのうち2/3は写真や図面が占めているため文章量は非常に少ないものの、開発目的から技術的な特徴、試験の結果とその後の顛末までが記されているので一通りの情報を得ることができるだろう。同著者の”Vakhmistrov’s Circus”と同様に、文章はいかにもモノグラフらしい淡々とした体裁になっているが、その間に挿入されるエピソードから当時の雰囲気を伺い知ることができる点も同じだ。

 

 ソ連初のオートジャイロ«KASKAR-1»の制作が終業後に集まって作業を進められていたり、次の試作機«KASKAR-2»は初舞台のデモンストレーションでは直前になって飛行許可を取り消されたにも構わず離陸して、政府代表団の数メートル前に着地してみせるなどのエピソードからは、このプロジェクトのもつ小規模なベンチャーのような雰囲気が感じられて楽しい。余談だが、今ではヘリコプターを表す«Вертолёт»という単語は、«KASKAR-1»の設計過程の中で登場した造語だという。

 

 しかしそれ以降は簡単にいかず、何度も試作機を作っては壊し続け、技術的には進歩していくものの相応の時間が流れていき、次第に関心が薄われていってしまう。最も成功したオートジャイロであるA-7では民間や実戦も含めて何度か実験的な運用がなされるものの、それもごく小規模なものにとどまり、さらに開戦と工場の疎開に伴う生産機種の選択と集中により、その活動が終わってしまう。最終的な評価は、プロジェクトの不振によってカモフが批判に晒された際にヤコブレフが擁護しているように、プロジェクトの技術的な複雑さと新規性を考慮すれば成果が出ないのもやむを得ない、というところだろう。もちろん、戦後のヘリコプター開発に至る過程として、十分な技術的経験を得ることができたという点も述べられて筆者によって述べられている。

 

 いくつか面白いエピソードもあるが、結局のところは成功することなく選択と集中の中で消えていったプロジェクトのお話であり、派手さはない。ヘリコプターの前史として、技術の潮流を見出すことはできる。そういった意味で、ソ連オートジャイロに興味がある方にはお勧めできるが、それ以外の方にはお勧めしづらいかもしれない。

【書評】"Red Phoenix Rising– The Soviet Air Force in World War II" Von Hardesty & Ilya Grinberg

Von Hardesty & Ilya Grinberg, “Red Phoenix Rising – The Soviet Air Force in World War II” University Press of Kansas (2012)

 

・この本について

 第二次世界大戦中のソ連空軍を対象とした通史。”Red Phoenix”は言うまでもなくソ連空軍のことを指しており、開戦によって歴史的な大損害を被ったソ連空軍が戦闘を経て進化し、ドイツ空軍を圧倒する強力な組織に成長する様子を不死鳥になぞらえている。

 著者Von Hardestyはスミソニアン博物館の学芸員で、Ilya Grinbergはニューヨーク州立大学の電気工学の教授。Introductionで述べられているように、Von Hardestyは1982年に、当時参照可能だった、今からすれば限定的な資料を用いて、本書の前身となる ”Red Phoenix : The Rise of Soviet Air Power, 1941-1945” という著作を出版している。これをソ連崩壊後に公開されたソ連側の資料と、それらを用いて歴史の細部を明らかにしてきた東側の研究者たちの成果を参照して全面的に刷新したのが本書、という経緯があるようだ。

 本書はこれまで十分に注目されてこなかったソ連空軍に注目し、また同様の書籍の中でも、新しく、より ”Authoritative” なソ連空軍を扱った書籍を目指しているという。本文中に示される多数の出典は巻末にまとめられており、興味を持った事項については出典を辿ることができる。(アクセスできるかは別として)

 

・内容について

 本書の構成は主要な戦闘に注目し、それぞれの経過と、その中でソ連空軍に訪れた変化を採り上げるもの。開戦前後、モスクワ防衛戦、スターリングラード、クバン、クルスク、そして1944-45年の攻勢が章立てされている。注目すべきはクバンにおける航空戦、そして1944-45年の攻勢に伴う航空戦(これは更にコルスン包囲戦やルーマニア上空の戦い、バグラチオン作戦などに細分されている)で、類書で十分に触れられてこなかったこれらの航空戦を概要から知ることができる。また米爆撃機によるシャトル爆撃も大きく扱われている。

 記述の内容はその戦いの概要から始まり、地上戦の経過を簡単に述べた上で、航空戦の経過を一通り解説しつつ、組織や戦術の変化や、特徴的な出来事を紹介していく。地図は各章1枚程度と最小限だが理解を助けてくれる。記述のレベルは航空軍や航空師団のなどの規模の大きな部隊の動向を中心に扱うもので、航空戦も出撃数や損失数で表現されるものがほとんどだが、不足するデティールを補うため、部分的に連隊や個人レベルのエピソードも挿入されている。

 

 前書きではソ連崩壊後の資料と研究を用いて云々、という大仰な能書きがされているが、本文の調子は至って穏当で、尖ったところはない。従来の定説を覆すようなことはせず、基本的な事項から丁寧に、出典を示しながら、全体像を提示している。

 そこで示されるおおまかな流れはそれ自体珍しいものではなく、緒戦で大敗北を喫した後、モスクワ前面で押し返し、スターリングラード戦を堪え、クバンとクルスクで拮抗し、その後の攻勢で優勢に立つ、というどこかで見聞きしたことのあるものだが、断片的に見聞きしてきたそれらの情報が一連の流れとして、その流れを根拠づける出来事や数字とともに提示されることで、より深い理解を得ることができそうだ。

 

 ただし、本書はあくまで通史であるため、必要以上の細部については省略されているし、紹介される事例は多くても、1つの話題を掘り下げることは少なく、場合によっては傾向を記述するだけに留まり具体的な事例を紹介しない。これについては本書の目的からして仕方のないことだと思うが、消化不良に思われる方もいると思う。

 

 本書で扱われた航空戦のうち、モスクワ防衛戦とクルスクの戦いについてはドミートリィ・ハザーノフ『モスクワ上空の戦い』『クルスク航空戦 (上・下)』に詳しいため、上記の航空戦の詳細が気になる方はそちらを参照されるとよいかもしれない。

 また、第二次大戦のソ連空軍を包括的に扱った書籍としては以下の日本語で入手しやすいものがあるので、未読であれば本書よりもそちらを先に参照されることをお勧めする。飯山幸伸『ソビエト航空戦』(光人社NF文庫) は第二次大戦終結までのソ連の航空機事情を包括的に扱った労作で、戦闘の経過にも少なくない文章が割かれている。またヒュー・モーガン『第二次大戦のソ連航空隊エース』では短いながらも大戦中を通じた航空戦の趨勢に触れられている。航空戦の趨勢に注目するなら、上記2作は本書と比べて記述の深度こそ異なるものの、その方向性は同等で、記述には奇妙に一致するところがいくつかある。おそらく同一の参考文献があるのだと思うが、どちらにせよ、先に日本語で読める分を読んでおいて損はないはず。

メモ:ソ連の液冷単発機のラジエータ配置について

2019/11/10 ITP、雑感を追加、その他修正

 

  

以前、双発機についてメモしたので、そのついでに単発機についても手軽に調べられる範囲で調べてメモしておく。網羅的なものではないが、ある程度の時代ごとの傾向は見えるようになったと思う。なお、機体名の後の()内は注記がない限り初飛行の年度を記載している。

 

・Polikarpov R-1 (Airco DH. 9A / 1918), Tupolev R-3 (1925)

 エンジン前面にシャッター付きのラジエータを配置している。

 ただし、R-3のM-5エンジン搭載型ではLamblinの”Lobster Pot”と呼ばれる円筒形のラジエータを機首左右に配置している。

 

・Grigorovich I-2 (1924)

 I-2では機体下部に板状のラジエータが取り付けられており、これは後方に折りたたむことができる。

 

・Polikarpov I-3 (1928), R-5 (1928), R-Z (1935)

 機体下部に板状のラジエータを搭載しているが、こちらは垂直上方に引き込む。ラジエータの位置はI-3では主脚の後方に、R-5では主脚の前方、R-5の発展型R-Zでは主脚の後方にある。

 

・I-7 (Heinkel HD 37 / 1928)

 Heinkel HD 37は1934年にソ連国内で生産され、I-7として採用された。ラジエータの位置は機首下面。

 

・Tupolev I-8 (1930)

 あまり情報が残っていない機体のため実際はわからないが、側面からの写真を見ると、機首下にオイルクーラ、機体下部にラジエータを搭載しているようにも見える。

 

・Vartini Stal-6 (1933), Stal-8 (-)

 イタリア人技術者Vartiniによる試作戦闘機Stal-6, Stal-8では蒸気翼面冷却が採用されている。ラジエータの位置は主翼前縁で、それ以外の補助的な冷却器は無いようだ。オイルクーラは右主翼付け根の下面にある。なお、Stal-8は完成前に計画が破棄されている。

 

・Polikarpov I-17 (TsKB-15 / 1934, TsKB-19 / 1935, TsKB-33 / ??)

 TsKB-15では胴体下に1つの引込式冷却器を搭載している。改良型のTsKB-19では計2個の引込式冷却器を内翼の下に搭載する方式に変更されている。

派生型のTsKB-33では蒸気翼面冷却が試みられたと語られているが、詳細はわからない。

(https://massimotessitori.altervista.org/sovietwarplanes/pages/I-17/index.html)が参考になる。

 

・Ilyshin I-21 / TsKB-32 (1936)

 試作1号機は蒸気翼面冷却方式を、試作2号機はエチレングリコールを用いた引き込み式の冷却器をそれぞれ搭載しているという。

 

・LaGG-3 (1940)

 LaGG-3では機種の顎下にオイルクーラを、胴体の下にラジエータを搭載している。ラジエータは拡散式のダクトを採用して機体に深く埋め込まれており、インテークの下面は曲線状に切り欠かれているなど、曲面が多用されたかなり凝った形状をしている。主翼付け根左右の穴はスーパーチャージャー用のインテーク。以上のどれも改良されるに従い若干形状が変更されている。そのあたりについては以下のページが詳しい。(https://massimotessitori.altervista.org/sovietwarplanes/pages/lagg3/profiles.htm)

 

・Gorbunov I-105 (1943)

 ゴルブノフによるLaGG-3の改良型、I-105はオイルクーラをエンジン下から移設している。オイルクーラは2個に分割されてコクピットの下側方にあり、それぞれのインテークは胴体下のラジエータの斜め前方に左右一つずつ設けられている。排気は機体側面の排気口から出ていくという。凝ったことをしているが、意図や効果のほどはわからない。なお、1944年に行われた試作2号機の試験飛行では冷却水と潤滑油の過熱により3-4分程度しか最高速度を維持できなかったという。

(https://massimotessitori.altervista.org/sovietwarplanes/pages/lagg3/105/105.html)に解説がある。

 一方、Yefim Gordon “Lavochikin’s Piston Engined Fighters”(2003) p.33ではオイルクーラのインテークは主翼の付け根に移されたと書かれているが、機体下部のインテークには触れられていない。先のページの解説の方が正しいように思う。

 

・MiG-3 (1940)

 ラジエータはLaGG同様に機体下部に半ば埋め込まれた形で設置されているが、インテークはLaGGよりも幾分単純な矩形状だ。オイルクーラはエンジンの左右側面にある。原型のI-200の試作1号機では当初エンジン左側のみとしていたが、試作2号機では左右に取り付けるように変更されている。また、オイルクーラのフラップも入口側から出口側に変更されている。またオイルクーラはエンジン左右でインテークの形状が微妙に異なる。上記については『世界の傑作機 第二次大戦ミグ戦闘機』p.18で写真付きで解説されているのでそちらを参照するとよい。主翼付け根のインテークは過給機用のもの。

 

・MiG I-230 (1943) / I-231 (1943)

 MiG-3と比べて、ラジエータ(型式:OP-310)は操縦席の下に移動し、インテークは主翼前縁に設けられている。排気は主翼下面に向けられている。過給機のインテークはラジエータのインテークに併設されている。オイルクーラ(type 533)は胴体の下に設置されている。(http://airwar.ru/enc/fww2/mig3u.htmlより)

 

 Yefim Gordon “Mikoyan’s Piston Engined Fighters” p.63ではラジエータが胴体下面にありインテークをオイルクーラとも兼用、主翼付け根のインテークは過給機用としているが、胴体下面のインテークが非常に小さいことを考えると納得しがたい。

 

 なお、試作2号機では胴体下と主翼付け根のインテークがどちらも拡大されている。(Yefim Gordon “Mikoyan’s Piston Engined Fighters” p.68)

 AM-39Aエンジンを搭載したI-231ではエンジン出力の増加にあわせてラジエータの面積を増加させ、その中に過給機用のインタークーラを併設している。(http://airwar.ru/enc/fww2/i231.html)

 

・MiG I-220 (1943)

 I-220ではラジエータ、オイルクーラ、過給機のインテークを全て主翼前縁に設けている。ラジエータのインテークは一番外側にあり、ラジエータ主翼の主桁後方に置かれている。ラジエータの排気は主翼上面。*1 写真を見ると主翼付け根のインテークは左右で形状が異なっており、右翼側は横に長いが、左翼側は写真によって異なり、右翼側の半分ほどの横幅のものと、右翼側と同等のものを2分割しているものがある。途中で改修しているのだと思うが、詳細はわからなかった。

 

 I-221については写真が残っていないが、http://airwar.ru/enc/fww2/i221.htmlに側面図が掲載されている。機体下面に冷却器らしきものが書かれており、恐らくターボ過給機用のものだろう。

 

・I-222 (1944) / I-224 (1945)

 I-222では機体下部にインタークーラ用の冷却器が胴体下から突出する形で設置されている。それ以前の液冷式のものから空気-空気式のものに変更されているという。

 I-224では機体下部のインタークーラ用インテークの形状が丸みを帯びたものに変更されており、またラジエータの排気口が主翼上面に突出している。(Yefim Gordon “Mikoyan’s Piston Engined Fighters” pp.85-91)

 

-----(2019/11/10追記)-----

・Polikarpov ITP (1942)

 ITPは機首下面にオイルクーラを配置し、主翼内部にラジエータを搭載している。ラジエータのインテークは主翼前縁にあり、ダクトを通ってラジエータで熱交換された空気は主翼上面に排気される。インテークとラジエータの間には脚庫があるが、深さが必要なタイヤ収納部をさけて、またダクトをわずかに湾曲させることで脚庫の上を通過させているようだ。(http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/aviatsiya/sssr/istrebiteli-2/1940-e-1950-e-gody/istrebiteli-kb-polikarpova/istrebitel-s-tyazheloj-pushkoj-itp/)に断面図がある。

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・Yak-1, Yak-7, Yak-9, Yak-3 (1940-)

 機体下部にラジエータを搭載している点は共通している。Yak-1, Yak-7と -9U以前ではの機首下面にオイルクーラを搭載している。Yak-3とYak-9U以降ではオイルクーラは胴体内部に移動し、主翼付け根の2つに区切られた外側をインテークとしている。内側は過給機用のものだ。オイルクーラの排気口は機体下面、ラジエータインテークの斜め前に設置されている。

 ラジエータとオイルクーラの形状は試作機でも生産中でも何度も修正されている。その中では、Yak-1のオイルクーラのインテークの形状は入り口がどんどん絞られる方向に変化しており面白い。Yak-1Mでは非常に小さくなっている。この辺りは『世界の傑作機 WWIIヤコブレフ戦闘機』に詳しい。

 

・I-30 (1941)

 1号機ではYak-1と同様だが、2号機ではオイルクーラを翼内に移動し、主翼前縁にインテークを設けている。ただし、その後Yak-1と同様の配置に戻されたようだ。(世傑Yak p.39)

 

・Il-2 (1939) / Il-10 (1944)

 Il-2では防弾のためにラジエータをエンジンの後方に配置し、機首上面のインテークから機体下面の排気口に向けて空気が流れるようになっている。ダクトに収まりきらないオイルクーラはラジエータの排気口付近の機体下面に装甲シャッター付きで取り付けられている。詳細な配置図や変遷は『世界の傑作機 Il-2 シュトルモビク』に詳しい。

 一方、Il-10ではラジエータ、オイルクーラのどちらも機体の内部に収納されており、主翼付け根のインテークから導かれた空気は熱交換された後に機体下面に排出される。右翼のインテークはラジエータへ、左翼のインテークは半分だけオイルクーラへ流れる。写真からフィン式の熱交換器が使用されていることがわかる。構造や写真についてはhttps://massimotessitori.altervista.org/sovietwarplanes/pages/il10/details/engine/engine.htmに詳しい。

 

 

・Su-1 (1940), Su-3 (1941)

 機体下部にラジエータ用のインテークがあるが、ラジエータは操縦席の後方に置かれており、排気口はコクピットの後方、機体の上面にある。Il-2とは逆に下から上に向けて流れる構造になっているが、その理由はわからない。

 

 

 

 以上を方式ごとに大雑把にまとめると、

機首前面(1910-20年代) → 引込式冷却器の採用 (1920年代末-30年代中頃) → 拡散式ダクトの採用(1940年~) → 主翼付け根や翼内への熱交換器の移設 (1943年以降) という大まかな流れが見えてくる。翼面蒸気冷却やエチレングリコールの使用は1930年代中頃のようだ。

 P-51で有名な境界層排除については、La-7の胴体下のオイルクーラがそれらしい形状をしているほかは見られない。La-7のそれにしても、La-9以降では機首のカウリング下面に移動されている。

 特徴を挙げるとすれば、戦前の機体で引込式冷却器が多用されていることと、戦中の機体で翼内(翼付け根も含む)にインテークを設けることが多い点だろうか。

 

-----(2019/11/10追記) -----

 また翼内にラジエータを搭載する方法についても、イギリスのモスキートやシーフューリーでは主翼前縁のインテークの直後にラジエータを置いて主翼下面に排気しているが、ソ連機では多くの機体でラジエータの位置を主翼の翼弦中央付近に置き、主翼上面に排気している。この方法なら主翼前縁直後にある脚庫にラジエータの設置スペースを左右されずに済むが、一方で脚庫を避けてダクトを通す必要があるし、主翼の内容積も有効活用(燃料タンク搭載など)が難しくなりそうだ。

  脚庫との干渉は単発機ならではの問題で、双発機では脚庫をエンジンナセルと一体化しているためこのような問題はなさそうだ。また双発機ではエンジンナセルの左右にインテークを設けるスペースがあるが、単発機ではそうもいかないため設置スペースが限られるし、加えて翼厚が小さければインテークを横に広げる必要もあるだろう。双発機に比べて十分なスペースが確保しづらい条件が揃っているように思う。

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以降のためのメモ

・熱交換器の本体の形状(ハニカムチューブ式やフィン式など)については文献であまり触れられていないのが気になった。型番もごく稀にしか言及されない。調べられる範囲で調べたい。

・図を描いた方がわかりやすそう

エチレングリコールは40年代に入っても使用されているか。

・冷却システム全体の構造はマニュアルに記載されているので、それも読んでみたい。

・基本的な原理から熱交換器の取付方法の良し悪しを評価してみたい。

*1:Yefim Gordon “Mikoyan’s Piston Engined Fighters” pp.73-83

メモ:ソ連機モノグラフ電子版購入先について

 電子版で購入できるソ連機モノグラフについて自分用にメモする。

 これを書いている人間は、正直に言えば、十分に理解しないまま体当たりで購入に踏み切っているため、以下に書かれていることを真似して何かしらの損害を被ったとしても責任を取れないことに注意してほしい。

 

・Война и мы. Авиаколлекция (Яуза)

 ソ連機のモノグラフを中心としたシリーズ。大戦機だけでなく現用機も扱っている。内容は一般的なモノグラフで、開発経緯から始まり派生型の解説、実戦記録などで構成されている。ただし100ページ程度のものから400ページに迫るものまであり、カラー側面図も冊子によってあったり無かったりするなど、フォーマットにあまり統一性はない。文章による解説が中心だが、写真や図版も多数収録されている。執筆者にはMikhail MaslovやDomitoriy Khazanovなど、Osprey Publishingで見かける名前を見つけることができる。

 シリーズのうちいくつかは電子書籍化されており、litres.ruから購入可能。Ozon.ruの商品ページからダウンロード購入を選んだ場合でもlitres.ruに転送される。1冊500~1,000円程度(2019年1月現在)。ファイルは基本的にPDF形式でダウンロードできる。支払方法は色々あるようだがPaypalが使える。最初に数百円でもチャージすればアカウントとパスワードが自動生成される。

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・Авиаколлекция (Моделист-конструктор)

 30-40ページ程度のモノグラフで、ソ連大戦/現用機以外にも各国の機体を扱っている。雑誌«Моделист-конструктор» の別冊として発行されている。どちらかといえばマイナーな機体(例えばTupolev R-6やShavrov Sh-2など)も扱っているのが嬉しい。また、文章に対して写真と図版が多いため、こちらの方がとっつきやすい。

 

 雑誌Моделист-конструктор公式(http://modelist-konstruktor.ru/)の右下のあたりにいくつかのネット書店の名前が挙げられており、そこから電子版が購入可能。その中ではrukont.ruが表紙を見ながら選べるため使いやすい。なお、どのネット書店でも購入できるのは2010年以降の号だけで、それ以前のものは購入できないようだ。

 

 rukont.ruではメールアドレスとアカウント名、パスワードを設定すればアカウントを作成することができる。1冊250~400円程度で(2019年1月現在)、ファイルはPDF形式。支払はYandex moneyなどのロシアの電子決済サービスのほか、VISAやMasterカードも使用できる。

 

 

・雑誌

 litres.ruでは«История авиации» の№36以降が販売されている。ただしダウンロードではなくlitres.ruにてオンライン上で読むことになる。

 

 その他、適宜追記していく。

メモ:ソ連の液冷双発機のラジエータ配置について

http://contrails.free.fr/engine_aerodyn_radia_en.php

液冷エンジンのラジエータの原理と構造について、簡潔にまとめられたページを見つけたのでメモしておく。キットプレーンを扱っている方が作製されたページのようだ。

 

airwar.ruを眺めていて気付いたことをメモする。現状で言えることは、1930年代中頃に始まった搭載位置の試行錯誤が、1940年代に入って最終的に主翼内部に搭載するように落ち着いたようだ、という感じだろうか。折に触れて充実させていきたい。なお、機体名の後の()内は基本的に初飛行の年度としている。

 

・TB-1 (1925)

 1925年に初飛行したTB-1ではエンジンの前面にラジエータが搭載されており、ラジエータ流入した空気はエンジンの周囲を通り、エンジンナセル上後方から主翼上面に排出される。同時代のJunkers K.24やそれ以前のJunkers F.13と似たようなものに見えるが、ただしTB-1ではラジエータを通過した空気を主翼上面に排出する点が異なっている。後のSB 2M100のラジエータ配置と似通っていることにも注目したい。

 面白いのはラジエータを通過した空気がその後方のエンジンを通った後、流路内に設置された潤滑油タンクをそのまま冷やす構造になっている点だ。潤滑油用の冷却器はないという。(http://airwar.ru/enc/bww1/tb1.htmlに付録の図に記載あり)

 

・Tupolev R-6 (1929) / ANT-21 (1933) / ANT-29 (1935)

 上記の3機ではエンジン下部にラジエータが搭載されており、ラジエータの前方にはシャッターが設置されている。この方式はTB-3やANT-20などいくつかの機体に採用されており、一時のスタンダードになっていたように思える。

 なおR-6の原型機では当初、引き込み式のラジエータを内翼に搭載していたが、その後エンジン下部に変更している。またR-6では翼内にラジエータを搭載する実験も行われている。この実験は1935年にミシーシェフの率いるチームにより行われたもので、5km/hの増速が得られたという。*1ただしこのときのラジエータの排気は主翼の下面に向けられている点が特異だ。(後に普及する翼内搭載方式では通常、主翼上面に排気する)

(2020-07-04追記)改めて読み返すと本文では下向き排気と書いてあるが写真を見ると主翼上面に排気口があるように見える。どっちだ。

 

・Tupolev SB 2M-100 (1934)

 SB 2M-100からSB 2M-103のSeries201までの機体ではエンジンの前面にシャッターと環状のラジエータが配置されている。空気はシャッターを通過してラジエータ流入し、エンジンの周囲を通って主翼上面へと抜けていく。大まかな配置はTB-1とほぼ同じのようだ。ラジエータの形状は環状というより楕円型で、中心が六角形状に切りかかれており、あまりコンパクトではない。(http://aviadejavu.ru/Site/Crafts/Craft20003-5.htm#picsに写真がある)

 また写真では確認できていないが、潤滑油タンクの位置もTB-1と同様のようだ。(https://modelist-konstruktor.com/aviacziya/ispanskij-bombardirovshhik-tupolevaの図内116番)

 

 

 

・Tupolev ANT-41 (1936)

ANT-41は外見こそSBによく似ているものの、ラジエータ主翼内部に搭載されている。これは後に見るように1940年代に入ってスタンダードになる搭載方法で、この時点で先進的なものだ。インテークは主翼前縁の下側に寄っている。

 Airwar.ru(http://www.airwar.ru/enc/sww2/ant41.html) には、この配置を取った機体はANT-41が初で あることと、R-6でこの配置が試験されたことが記載されている。

 

・Tupolev SB-bis3 (1937), SB-2M103 series 201 (1939)

 エンジンナセルの形状を変更しエンジン下部にラジエータを設置したSB-bis3が1937年から1938年にかけて試験されており、1939年後半のSB-2M103 series 201から生産型に反映されている。

 

・Polikarpov VIT-1 (1937), VIT-2 (1938), SPB (1940)

 VIT-1は主翼下面に引込式ラジエータ搭載しており、これはサーモスタットを用いて自動的に引込量を調整するものだという。(http://airwar.ru/enc/aww2/vit1.html)

 VIT-2については後に改修されたと書かれているが(http://www.airwar.ru/enc/bww2/spb.html)、詳細は分からない。

 一方SPBでは、ラジエータはエンジンの後方に配置し、エンジンナセル側面に設けられたインテークから吸気するものになっている。いくつかの三面図ではPe-2のように翼内にラジエータが設置されているように書かれているが、それに対応する記述は見つけられていない。

 

・Yakovlev Yak-2 (1939), Yak-4 (1940)

 Yak-2, Yak-4もSPBと同様の、エンジンナセル側面のインテークからナセル後方に配置されたラジエータに給気する配置をとっている。オイルクーラのインテーク位置はそれぞれで異なり、Yak-2ではエンジンナセル側面のラジエータのインテーク前の前に取り付けられていたが、Yak-4ではエンジン下面に移動している。

 Yak-4については(http://www.airpages.ru/dc/yak4_1.shtml) に写真・解説がある。

 

・MiG DIS (1941)

 Yak-4と同様にエンジンナセル側面にインテークがあり、これがナセル後方のラジエータに給気している。オイルクーラ用のインテークは外翼に設けられているとのことだが*2主翼前縁と主翼下面の2つのインテークが設けられているようで、そのどちらがオイルクーラなのか、またもう一方が何に給気されるのかはわからなかった。

 

・Polikarpov TIS (A) (1941), TIS (MA) (1943)

Yak-4と同様に、TIS(A)ではエンジンナセル側面にラジエータのインテークがあり、オイルクーラのインテークはエンジンナセル下面にある。

 一方、後に再製作されたTIS(MA)では、主翼前縁のインテークから主翼内部のラジエータに空気を供給する方式に変更されているYefim Gordon, “Soviet Combat Aircraft of the Second World War” p.36。排気は主翼下面に放出される点に注意。

 

・Pe-2 (1939), ANT-58 (1941), DVB-102 (1942), SDB (1944), Tu-10 (1945)

 上記の機体では、主翼前縁に設けられた複数の楕円形インテークから主翼内部の

複数のラジエータに空気を供給し、主翼上面へ排出している。

 ラジエータの個数(=インテークの個数)はエンジンの出力に合わせて増加しており、一種のモジュール化がなされているように見える。

 

・Ar-2 (1940), Yer-2 (1940), SBB (1940), Il-6(1943)

 前述のPe-2等とは異なり、これらの機体では主翼前縁に横長のインテークを配置している。ラジエータの詳細まではわからないが、排気口まで同様に横長になっている。

 

以上をまとめると以下のようになる。

 

  • エンジン前面

TB-1 (1925), SB 2M-100 (1934)

*単発機だがMBR-2も同様

 

  • エンジン下部

R-6 (1929) / ANT-21 (1933) / ANT-29 (1935), SB 2M-103(Series201以降/1939)

*TB-3やPe-8も同様、ANT-22やANT-25ではエンジン上部に配置しているが実質同じ

 

R-6 (原型機/1929), VIT-1 (1937)

 

  • エンジンナセル後方

SPB (1940), TIS (A) (1941), Yak-2 (1939), Yak-4 (1940), MiG DIS (1941)

 

R-6 (実験機/1935), ANT-41 (1936), Pe-2 (1939), Ar-2 (1940), Yer-2 (1940), SBB (1940), ANT-58 (1941), DVB-102 (1942), Il-6 (1943), TIS (MA) (1943), SDB (1944) , Tu-10 (1945)

 

 

以下、今後のためのメモ

・そもそも原理的なことと、それぞれの搭載方法の得失について

ラジエータ位置の図示

・単発機のラジエータ搭載位置について

(単発液冷機の方が資料が充実しているし、Il-2やIl-10, Su-1,-3は凝ったことをしているので調べれば面白いはず)

・それぞれの冷却システムの詳細(マニュアル等)

・翼内ラジエータにより犠牲になるスペースについて(ラジエータの移動に伴って燃料タンクが増減する事例(Tu-2)や、桁との干渉はどのように処理しているのかなど)

 

*1:Авиаколлекция No.11 2012 p.22

*2:Yefim Gordon, “Soviet Combat Aircraft of the Second World War” p.18

【書評】“Red Stars vol.5 Baltic Fleet Air Force in Winter War.” Carl-Fredrik Geust

“Red Stars vol.5 Baltic Fleet Air Force in Winter War.” Carl-Fredrik Geust, Saumi Tirkeltaub, & Gennadiy Petrov, Apali, (2004)

 

・本書について

 フィンランドのApali社から出版されていたRed Starsシリーズの5冊目で、冬戦争におけるバルト艦隊航空隊(以下VVS KBF)と、同様にエストニアに基地を置いていた空軍の”OAG (Special Aviation Group)”の行動に焦点を当てたもの。第8軍に所属する航空隊や、北方艦隊航空隊の活動も一部含んでいる。本文は英語/芬語併記の192ページ。

 このシリーズは第二次大戦期のソ連航空事情をテーマごとに扱ったもので、検索してわかる範囲では、シリーズの構成は以下のようになっている。

 

  Vol. 1: Soviet Air Force in World War Two

  Vol. 2: German Aircraft in the Soviet Union

  Vol. 3: Camouflage and Markings of Russian and Soviet Aircraft until 1941

  Vol. 4: Lend-Lease Aircraft in Russia

  Vol. 5: Baltic Fleet Air Force in Winter War

  Vol. 6: Aeroflot Origins

  Vol. 7: The Winter War in the Air

 

 上記のうち、本書を含めた大半の著者(共著含む)を務めるのが、フィンランド人の航空史研究家であるCarl-Fredrik Geustのようだ。芬語版Wikipediaには彼のページがある。(https://fi.wikipedia.org/wiki/Carl-Fredrik_Geust) 

 

・内容について

 本書の内容は大きく3つに分かれている。まず始めに冬戦争のおおまかな経過を述べつつ、当時のソ連海軍航空隊の状況が概観される。ここでは海軍航空隊の管轄や軍管区との関係が説明され、そして停戦後に作成された報告書を引用することで、彼らが抱えていた問題が示される。

 次に、本書で扱われる各航空部隊について、構成とそれぞれ所属機種が解説される。ここではOAGの設立の背景とその目標も、VVS KBFと比較する形で解説される。

 そして最後に、開戦から停戦に至るまでの1日毎の戦闘記録が記述される。これが本書の内容の過半を占めている。ソ連側の記録をもとにフィンランド側の記録と照合するような記述がなされているため、実態をより正確に知ることができるだろう。なお、記述は「いつ・誰が・どこで・何をした」というようなもので、エピソードや関係者の回想などには立ち入っていない。(戦術についてはp.131に戦闘機による護衛についてほんの少し紹介されている程度)

 

 全体を通して著者の見解や評価が述べられることは少なく、「記録に語らせる」スタイルが取られている。とはいえ脚注がないため出典を遡ることはできないのだが(もしあったとしても遡ることができるか、という点は脇に置いて置かせてほしい。なお巻末に主要参考文献リストがあり、謝辞では文書と写真の提供元が示されている)。また、本文は基本的に英語/芬語併記なのだが、どうも芬語側の文章の方がやや分量が多いような、別にコラムが設けられているような気がする。

 

・雑感

 冬戦争の航空戦事情については、フィンランド側を主軸としたものが多く、一方でソ連側を主軸に置いたものはあまりなく、ましてや海軍航空隊、そしてOAGを扱っているものはそうそうないため、本書で示されるトピックは一つ一つが貴重で面白い。フィンランド側から見たソ連ではなく、ソ連側からの一貫した視点で彼らの行動を描き、彼らの認識していた問題を理解できるうえ、あまり注目されることのない任務を知ることができる。

 

以下に簡単にメモする。

・VVS KBFについて

 バルト艦隊航空隊 (VVS KBF) は開戦時に469機を有する一大勢力で、冬戦争にあたっては戦前の規定に従いレニングラード軍管区の指揮下に置かれたものの、実際の命令は艦隊の司令部から発せられることになっていた。レニングラード軍管区所属の航空隊とは作戦地域を分担しており、ヴィープリ以東は軍管区航空隊が担当したという (ただし、Koivistoの沿岸砲台は別)。開戦当時の彼らの目標は、敵船(イルマリネン、ヴァイナモイネンや潜水艦)や沿岸砲台の破壊、対潜哨戒のほか、敵飛行場への攻撃、偵察など幅広い一方で、兵力の集結していない都市や村落への空襲は避けるよう命令されていたという。(p.13)

 任務の中には戦艦「十月革命」(p.65) や「マラート」(p.66)と共同で攻撃にあたるものや、凍結したフィンランド湾を陸上部隊に移動させるために、そのルートを赤い塗料で示すものもあったという。(p.136)

 

 一方でOAG (Special Aviation Group)は、開戦後しばらくして軍総司令部が設立したタスクフォースで、こちらは空軍の指揮下にあった。目標はフィンランド南西(テュルクやタンペレ)への戦略爆撃で、ボスニア湾の港湾施設や、フィンランド中枢の鉄道分岐点、工場へも目標に含まれていた。(p.34)

 このタスクフォースを率いるのは空軍のトップエースであるG.K.クラフチェンコで、著者の見解によれば、彼が極東で経験を積んでいたため、OAGの増援には彼がよく知っているモンゴルや極東の部隊が選ばれたという。(p.42)

 

 これは印象でしかないが、戦争期間を通じて悪天候が多く、また特に開戦しばらくは事故や誤認が相次いでいるように読めた。このあたりはもう少し読み込みたい。